粽(ちまき)

5月5日の端午の節句に粽を食べるのは、中国から伝わった習俗で、楚の詩人屈原の故事に由来するものだという。世を憂い汨羅(べきら)の淵に身を投じて自らの命を断った屈原。その忌日が5月5日にあたるところから、楚の人々は毎年同日に、竹筒に米を詰めて汨羅の淵に投じ屈原の霊を慰めていた。あるとき屈原の霊が現れて、「淵に棲む蛟竜が毎年厚意の品を盗み食らってしまう。楝の葉で包み、五色の糸で巻けば、蛟竜も憚って食べないであろう」という。以後、楚の人々は屈原の霊の言う通りにした。その遺風を伝えるのが端午の節句に食べる粽であるという。日本では927年完成の『延喜式』や934年頃成立の『和名類聚鈔』に粽の名が出るから、かなり古い時代より作られていたことがうかがえる。

子規の門人、伊藤左千夫(千葉県生 1864-1913)の『浜菊』(明治41年〈1908〉発表)という短編小説に粽についての言及があるので引用しておこう。

粽という名からして僕は好きなのだ。食って美味いと云うより、見たばかりでもう何となくなつかしい。第一言い伝えの話が非常に詩的だし、季節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の葉を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ。(中略)野趣というがえいか、仙味とでも云うか。何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲湯に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪らなくなるな。


明治の小説らしい不器用といってもいいような表現であるが、左千夫にとって、粽は世俗を離れた仙界の風趣を呼び起こすものであったらしい。粽の句を一句あげておこう。石田波郷(1913-1969)の句、

粽解く斯く虔しく生き継がむ


波郷は松山(西垣生町)の出身、粽は夏の季語である。

【典拠文献・参考文献】
『古事類苑 天部・歳時部』(「続斉諧記」)吉川弘文館 1976年10月
伊藤左千夫『野菊の墓』新潮文庫(改版) 1985年6月
『日本大百科全書』第15巻(沢史生執筆「粽」の項) 小学館 1987年5月
『国史大辞典』第9巻(高山直子執筆「粽」の項) 吉川弘文館 1988年9月
「新版・俳句歳時記」編集委員会編『新版・俳句歳時記〈第二版〉』雄山閣 2003年4月

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羊羹

夏目漱石は結構甘党で、羊羹がとりわけ好きだったようである。小説『草枕』の主人公が語る下記のような羊羹讃美は、漱石自身の嗜好を表明するものと見ていいだろう。

菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔かだが、少し重苦しい。ジェリは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶる顫えて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。


上引の文章では「別段食いたくはないが…」といっているが、家庭での漱石は妻が隠しておいた羊羹をつまみ食いすることもあったようである。漱石の妻、鏡子の証言を引いておこう。

この愛子(注-漱石の四女)がお父さん思ひで、夏目がよくお菓子をつまんだりするので、お腹(なか)によくないと思ひかくしておきますと、書斎で勉強した後で一つ羊羹でもつまみたくなって出るのでせう。戸棚をさがしてもありません。すると子供は目が早いので、私の隠しておいたところをちゃんと知って居て、気の毒だと思ふのでせう。お父さん、こゝにあってよと出してやります。おゝいゝ子だ。お前は中々孝行者だなんかとにやにやしながら、お菓子をつまんで頬張って居ります。胃の悪い癖に、こんなことは平気な方でした。 夏目鏡子『漱石の思ひ出』


谷崎潤一郎は漱石の羊羹讃美をうけて、羊羹を「瞑想的」な深みをもつ和菓子とする次のような論を展開している。

かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そういえばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何という浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、恰も室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。 『陰翳礼讃』


視覚(色あい)、味覚の双方において深みを感じさせる和菓子は羊羹だけであるかもしれない。

【典拠文献】
『漱石全集』第3巻 岩波書店 1994年2月
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(改版)中公文庫 1995年9月
夏目鏡子『漱石の思ひ出』(改版)岩波書店 2003年10月

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越後の笹飴

漱石の『坊つちやん』に「越後の笹飴」というのが出るのを記憶しておられる方は多いであろう。「越後の笹飴」は越後高田の高橋孫左衛門が考案した粟飴を練って笹の葉にはさんだもの。『坊つちやん』の中では、「越後の笹飴」は次のように言及されている。

夫(それ)でも妙な顔をして居るから「何を見やげに買って来てやらう、何が欲しい」と聞いて見たら、「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違ふ。「おれの行く田舎には笹飴はなさゝうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。

うとうとしたら清の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食って居る。笹は毒だから、よしたらよからうと云ふと、いえ此笹が御薬で御座いますと云って旨さうに食って居る。おれがあきれ返って大きな口を開いてハヽヽヽと笑ったら眼が覚めた。


漱石が『坊つちやん』を書いたのは明治39年(1906)。同43年11月5日の漱石の日記には、「森成さんが越後の笹飴をくれる。雅なものなれど旨からず」とあるから、『坊つちやん』を書いた時点では、漱石は「越後の笹飴」を食べたことはなかったようである。「森成さん」というのは、漱石が修善寺で倒れたときの担当医だった森成麟造(1884-1955)。その郷里が新潟県高田であったことから、「越後の笹飴」や「越後の笹餅」などを漱石に贈っていた。森成麟造に宛てた漱石の礼状には、「笹飴は私はたった一つしか食べません。あとはみんな小供が食べてしまひました。さうして笹を座敷中へ散らばしていやはや大変な有様です」(大正2年1月12日付)、「越後の笹餅といふものは始めてゞす。あのまゝ一つ食べました。夫(それ)から砂糖をつけて二つ食べました。あとは家のものがみんな食べました。ありがたう御座います。大して美味とは思はれませんが珍奇なものには相違ありません。夫(それ)から越後からきたのだから猶(なお)うまいのでせう」(大正3年6月25日付)といった極めて率直な感想が述べられている。

【典拠文献・参考文献】
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月
『漱石全集』第20巻 岩波書店 1996年7月
『漱石全集』第24巻 岩波書店 1997年2月
牛嶋英俊『飴と飴売りの文化史』弦書房 2005年5月
柴田宵曲(小出昌洋編)『漱石覚え書』中公文庫 2009年9月

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西本願寺と新選組

新選組(新撰組)の屯所は一時期、西本願寺内におかれていたことがある。寺内の北集会所、太鼓楼が屯所として使われたというが、捕縛者が連れ込まれたり、切腹や処刑が行われたりするなど、刑場のようなありさまで、「実ニ極楽ニ地獄ヲ合併シタルガ如シ」(西村兼文『新撰組始末記』)であったという。西本願寺はこれに困惑し、寺の東南の不動堂村に土地を確保して、美麗を尽した邸宅を建て、移転を要請した。新選組が不動堂村の新屯所に移ったときは、「疫病神ヲ送リ出シタル心地シテ門主及ビ一家ノ歓喜カギリナシ」(同上)であったという。

その西本願寺と新選組隊士の後日談。新選組に所属していた島田魁(1828-1900)は維新後、京都下京で剣術道場を経営していたが、明治19年(1886)頃から、西本願寺の夜間警備員をつとめるようになった。島田の前歴を西本願寺側が知らなかったはずはないと思うが、死去当日まで同寺に勤務した。島田が死亡したのは明治33年(1900)3月20日。夜警勤務中、西本願寺境内での死であった。

【参考文献】
松浦玲『新選組』岩波新書 2003年9月
古賀茂作・鈴木亨編著『「新撰組」全隊士録』講談社 2003年11月

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正岡律(子規の妹)と秋山真之

子規の妹、律は秋山真之に好意を寄せていたのではないか-真之の姪、土居健子(秋山好古の二女)はそう推測し、次のように述べている。

お律さんのそばにおりまして、ひょっとしたらお律さんは叔父真之のことを好きだったのではないのかしらん、と思ったことがございます。私の感じといいますか、想像に過ぎないのですが、叔父は美男子でした。尊敬するお兄さまの親友ですから、あるいは結ばれることを夢みておられたかもしれませんね。でも、あんな秀才と結婚したら大変ですよ。(1974年夏談)


司馬遼太郎はこの推測には否定的で、「健子さんにしてはやや唐突な話し方だし、私はそうとは思えない。ともかくも想像力に富んだ女学校初年級の少女の印象がこうであったということであろう。想像するに、当時の律にすれば、子規没後の根岸の家に訪ねてきた少女が、亡兄の親友の姪であったために、いつになく華やぎ、真之の若いころの印象などを語り、つい健子さんの少女の感受性にそういう想像をさせてしまったのであろう」(『ひとびとの跫音』)と述べている。

【典拠文献・参考文献】
土居健子(談)「叔父秋山真之と子規のご家族」(『子規全集』第17巻「月報11」講談社 1976年2月)
司馬遼太郎『ひとびとの跫音』(新装改版)中央公論新社 2009年8月

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以下は正岡律に関する過去のブログ記事

「正岡律の夫」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-460.html

「その後の正岡律」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-462.html

「土居健子「叔父秋山真之と子規のご家族」」→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-469.html

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