ルイス・フロイス『日欧文化比較』(1)

信長の時代に来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)は、その著『日欧文化比較』(1585年執筆・邦訳岩波文庫『ヨーロッパ文化と日本文化』)において次のようなことを述べている。

われわれの馬はきわめて美しい。日本のものはそれに比べてはるかに劣っている。(第8章・1)
われわれの馬はすべて釘と蹄鉄で装鋲する。日本のはそういうことは一切しない。その代り、半レグア(2~3km)しかもたない藁(わら)の沓(サパート)を履かせる。(同・7)
われわれの間では馬(上)で戦う。日本人は戦わなければならない時には、馬から降りる。(第7章・37)


中世ヨーロッパの軍馬は現在の馬に比べると小型であったが、それでも155cmくらいの体高があったといわれている。日本の戦国時代の軍馬は体高130~140cm(千葉県生実城跡出土の馬骨)、126cm(山梨県躑躅ケ崎館跡出土の馬骨)程度であった。今日の分類では体高147cm以下の馬はポニーとされるから、日本の在来馬はすべてポニーの部類に入るということになる。蹄鉄の技術が日本に伝わるのも幕末の頃であった。馬格は小さく、蹄鉄も使われていない。これに重い甲冑をつけた武士が乗るのだから、馬にとっては大変な負担であった。武士が騎乗したままの戦闘など到底不可能で、実際の戦場では騎馬兵は下馬して戦った。フロイスが「日本人は~馬から降りる」と書き留めているのは、当時の日本の下馬戦闘が外国人の目にはかなり奇異に映ったことを示している。

【典拠文献・参考文献】
ルイス・フロイス著 岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫 1991年6月
鈴木眞哉『鉄砲隊と騎馬軍団』洋泉社 2003年5月
山本博文監修『こんなに変わった歴史教科書』東京書籍 2008年12月

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ルイス・フロイス『日欧文化比較』(2)

ルイス・フロイス(1532-1597)『日欧文化比較』の記述。

われわれは散歩を、大きな保養で健康によく、気晴らしになるものと考えている。日本人は全然散歩をしない。(第1章・27)


散歩という行為が日本に定着したのは明治になってからであった。それ以前、散歩は「犬川」(犬の川端歩き、つまり無用のこと)などといわれ、卑しむべきこととされていた(幸田露伴『一国の首都』)。

われわれは喪に黒色を用いる。日本人は白色を用いる。(第1章・30)


喪服の色に関して、『貞丈雑記』(江戸中期の有職故実研究書)には、「人死したる時、かなしみの間、喪服とてうれえの時着る衣服を着するなり。その色はうす墨色とて、ねずみ色の布の衣服を用うるなり。常に用うまじき色なり」とある。『日本大百科全書』「喪服」の項には、「男は明治の末まで、近親者の喪服は白の長着に水色の裃をつけた。女は明治から昭和の初めまで、喪主や近親者は白羽二重の無垢に、白か水色の羽二重、繻子、紋織の帯を締め、白の長襦袢に白半衿、白丸裄の帯締、白帯揚の白装束であった」とある。

【典拠文献・参考文献】
伊勢貞丈 島田勇雄校注『貞丈雑記4』 平凡社東洋文庫 1986年2月
『日本大百科全書』第23巻(「喪服」の項 執筆者岡野和子) 小学館 1988年9月
ルイス・フロイス著 岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫 1991年6月
幸田露伴『一国の首都』岩波文庫 1993年5月

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ルイス・フロイス『日欧文化比較』(3)

ルイス・フロイス(1532-1597)『日欧文化比較』の記述。

ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。日本では夫が後、妻が前を歩く。(第2章・29)
ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける。(同・30)
ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。(同・31)
(ヨーロッパでは)汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのが普通である。日本では、しばしば妻が夫を離別する。(同・32)
ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。(同・34)
ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。(同・35)
ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲むことは礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通のことで、祭の時にはしばしば酔払うまで飲む。(同・54)


日本の女性は親や夫に断りなしに外出する。中世史家の網野善彦は、古くから女性だけの旅もあったとして次のように述べている。「熊野詣に女性だけで旅をすることもあったことがわかっていますし、江戸時代でも〈おかげまいり〉のような形で女性が旅をしていますけれども、その源流は中世まで遡ります。(中略)恐らくは物詣が多いでしょうが、物詣だけでなく、旅はそれ自体日常と違う特別の世界なので安全も保たれる。つまり、物詣をしている女性には、たやすく手をかけることは許されないという社会的な慣習があったので、女性だけの旅も可能だったのだと思うんです」。

われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ[言葉?]によって譴責するだけである。(第3章・7)
ヨーロッパの子供は青年になってもなお口上(レカード)ひとつ伝えることができない。日本の子供は十歳でも、それを伝える判断と思慮において、五十歳にも見られる。(同・11)
われわれの間では二十歳の男子でも、ほとんど剣(エスパーダ)を帯びることはない。日本の子供は十二、三歳で刀と脇差を帯びて歩く。(同・12)
われわれの子供はその立居振舞に落着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で、全く賞賛に値する。(同・13)
われわれの子供は大抵公開の演劇や演技の中でははにかむ。日本の子供は恥ずかしがらず、のびのびしていて、愛嬌がある。そして演ずるところは実に堂々としている。(同・14)
ヨーロッパの子供は多大の寵愛と温情、美食と美衣によって養育される。日本の子供は半裸で、ほとんど何らの寵愛も快楽もなく育てられる。(同・15)


ここで述べられているのは武士階級の子どもと思われる。[幕末~明治初期に来日した外国人は日本が「子どもの天国」であると述べている。当ブログ2009年11月29日記事参照。]

【典拠文献・参考文献】
ルイス・フロイス著 岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫 1991年6月
網野善彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』河合出版 1992年5月

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国木田独歩『忘れえぬ人々』-三津浜の描写

国木田独歩(1871-1908)の短編小説『忘れえぬ人々』(明治31年4月雑誌「国民之友」発表)に三津浜を描いた場面がある。多摩川の西岸、溝口(川崎市高津区)の宿屋の状景から始まるこの作品は、大津という無名作家が、偶然、泊まり合わせた秋山という無名画家に、「忘れえぬ人々」と題する大津の未定稿の小説の内容を語り聞かせるというもの。ここでいわれている忘れえぬ人々とは、「恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人」のことである。たまたま見かけただけに過ぎないが、大津にとっては忘れえぬ人々、三津浜で見かけたある人物もその忘れえぬ人々の一人であった。小説の本文を以下に引く。

その次は四国の三津ケ浜に一泊して汽船便を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛は格別で、わけても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑沓は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗らかに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑沓の光景をさらににぎにぎしくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声嬉々としてここに起これば、歓呼怒罵乱れてかしこに湧くという有様で、売るもの買うもの、老若男女、いずれも忙しそうに面白そうに嬉しそうに、駈けたり追ったりしている。露店が並んで立食いの客を待っている。売っている品は言わずもがなで、喰ってる人は大概船頭船方の類にきまっている。鯛や比良目(ひらめ)や海鰻(あなご)や章魚(たこ)がそこらに投げ出してある。腥(なまぐさ)い臭が人々の立ち騒ぐ袖や裾に煽られて鼻を打つ。
僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段鮮かに眺めるような心地がした。僕はほとんど自己(おのれ)を忘れてこの雑沓のうちをぶらぶらと歩き、やや物静かなる街(ちまた)の一端(はし)に出た。
するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈(たけ)の低い肥満(こえ)た漢子(おとこ)であった。その顔の色、その眼の光はちょうど悲しげな琵琶の音に相応(ふさわ)しく、あの咽ぶような糸の音につれて謡(うた)う声が沈んで濁って淀んでいた。巷の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者は誰もこの琵琶に耳を傾ける風も見せない。朝日は輝く浮世は忙(せ)わしい。
しかし僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端(のきば)の揃わない、しかも忙しそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売声や、かしましい鉄砧(かなしき)の音にまざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜(く)ぐって流れるようなのを聞いていると、嬉しそうな、浮き浮きした、面白そうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた。『忘れえぬ人々』の一人はすなわちこの琵琶僧である。


独歩は大分県佐伯の鶴谷学館の教師の職を辞して、山口県柳井の両親の家に向かう途中、三津浜に立ち寄った(明治27年8月2日)。小説の上記の部分にはこのときの体験が活かされていると見ていいだろう。国木田独歩、本名は哲夫、その作品には孤独な人間を見つめるあたたかい眼差しがあるといわれている。

【典拠文献・参考文献】
『現代日本文学館2 二葉亭四迷・国木田独歩』文藝春秋 1968年12月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 文学』 1984年3月


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与謝野鉄幹・晶子夫妻 松山来遊の歌

昭和6年(1931)11月2日、与謝野鉄幹(1873-1935)とその妻晶子(1878-1942)は松山を訪問、大野静(1892-1984 歌誌『にぎたづ』主宰)の案内で松山城、正宗寺などに赴き、道後に宿泊。翌日は林伝次(1891-1957 当時地方視学官)の案内で料亭「亀の井」にて伊予節を聴き、石手寺を訪れている。帰路は高浜港からの船便。以下に記す夫妻の歌によれば、松山の名所めぐりをしていたときの天候は晴れ、松山を離れるときには別れを惜しむかのような小雨であった。与謝野夫妻の松山来遊の歌、まず鉄幹の歌を記す。

秋晴れて伊予に雲なし鶴となり飛ぶこと勿れ松山の城
明るけれ子規の髪をば納めたる塔のあたりに散れる銀杏も
よき人の友と云ふ名のたをやめが歌へば清し伊予節の竹
共に乗り石手づつみを秋に行くかねて尋ねし道に逢ふごと
石手寺の門前の廊うす墨を松にまじへて秋に落ちつく
追ひきたり松山の友惜むなり秋の小雨に妻と乗る船


「子規の髪をば納めたる塔」というのは正宗寺にある「子規居士髪塔」のことである。「共に乗り~」は晶子と人力車に相乗りしたという意であろう。以下は与謝野晶子の歌。

海清し四国のさくら紅き葉をおとし初(そ)めたる松山の城
松山の城より秋の海見れば大地も持てりうつくしき蔓(つる)
なかば海なかばはやまを見る城の十一月のしろき石段
一筋の石手づつみの木のはてに川ぐちの水しろき秋かな
海は海山はおのれの青をもて惑ふことなくつらなれる伊予
四国にてわれそもいくつ見ることぞ秋のこころの現るる城
朱の繻子(しゅす)の柿のおち葉のめでたさよ伊予松山の城門のもと
かずかずの文のからかと見ゆるなり物をおもへば瀬戸の小島も
子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺(みてら)の秋の夕風
湯のこほり石手の寺の前を過ぐ松山城に日のおつるころ
古伊予の湯のこほりこれ山の城天帝廟のここちすれども
夕明り道後の湯場にかかるなり松山の城月のここちに
伊予節をおとも歌ひて「ていれぎ」を噛めば清水を噛むごとしわれ
湯の町と松山城をつなぐ道真白し秋がするわざのごと
道後なる湯の大神の御社(みやしろ)のもとに寝(ぬ)る夜となりにけるかな
夕映の空を負へればわが知らぬめでたき国の門に似る城
松山をなほあまたたび訪(と)はしめよ伊予の湯げたの数に似ずとも
伊予の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つけむりかな
別るべき伊予の港よ松山の古町の雨にぬれつつぞこし


「子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺」は正宗寺。同寺に「子規居士髪塔」と「鳴雪先生髯塔」があることを歌にしたもの。現在、正宗寺にはこの歌の小碑が2基ある(門前および子規髪塔・鳴雪髯塔の間)。「伊予の湯げた」は『源氏物語』夕顔巻にみえる言葉。「湯げた(湯桁)」は木の枠で囲った浴槽(白方勝の説)。「伊予の湯げた」は数が多いことで古来有名であった。「伊予の秋石手の寺の~」、石手寺の鐘楼前にはこの歌の碑がある。

【典拠文献・参考文献】
『定本与謝野晶子全集』第6巻 講談社 1981年5月
『愛媛文学手鏡』愛媛文化叢書刊行会 1987年4月
松山市史編集委員会『松山市史』第5巻 1995年5月
白方勝『源氏物語の人と心』風間書房 2005年5月

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