南方熊楠〈子規の思い出〉を語る

植物学、粘菌学、民俗学など多彩な分野に精通していた民間の学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)は、共立学校時代、正岡子規と同窓であった。明治44年(1911)3月12日、河東碧梧桐が和歌山県田辺に住む熊楠のもとを訪れたとき、話題が子規のことに及び、熊楠は次のように語ったという。

当時正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を齧ってはやれ詩を作るの句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕とは各々一方の大将顔をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存しておるのは、清水何とかいう男の死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕等も会葬したが、どこの寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬというので、坊主に葬式料をまけて呉れと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑う。 (河東碧梧桐『続三千里』)


熊楠の話に出る「清水何とか」は清水則遠(のりとお)。子規のおさななじみで上京後、子規と同じ下宿に住んでいたが、明治19年(1886)4月14日、脚気衝心により急死、子規が喪主となって葬儀をおこなった。葬儀には藤野漸、秋山真之、柳原正之(のちの極堂)、三並良、太田正躬、竹村鍛などが参列している。則遠の死に至る経緯や葬儀の模様などについては、遺族宛の子規書簡(同月17日付)、『筆まかせ』所収の一文「清水則遠氏」等に詳述されているが、「葬式料をまけてくれ」云々は熊楠のみが伝えるところである。

【典拠文献・参考文献】
河東碧梧桐『続三千里(下)』講談社 1974年9月
『子規全集』第18巻(書簡1) 講談社 1977年1月

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「しっかりおしや」-子規、秋山真之の一喝で喪主のつとめを果たす

明治19年(1886)4月14日、子規(当時大学予備門学生。数え年20歳)のおさななじみで、神田猿楽町の板垣方で子規と同居していた清水則遠(ブログ3月1日記事参照)がその下宿先で脚気衝心のため急死。子規は相当のショックを受けて、暫時放心状態となり、秋山真之に「しっかりおしや」と一喝されるという一幕があった。菊池謙二郎、柳原極堂はこの一件をそれぞれ次のように伝えている。

同郷で同窓の清水といふ男が脚気で死んだ時に、死骸の始末がすむと彼は悄然として気が抜けたやうに床の中にもぐり込んだ。それを気の強い秋山真之が見て「意気地がないな、しっかりおしや」と大喝したので、気の毒に思はれたことがあった。 菊池謙二郎(仙湖)「予備門時代の子規」

清水則遠は明治十九年四月十四日の午後脚気衝心を以て板垣楼上に急逝した。其朝から模様が多少変ってゐたが水腫する脚気は決して衝心せぬものと信ぜし居士(注-子規のこと)は清水が急死するなど夢にも想はず、僕は麻布の久松邸(注-久松は旧松山藩主)に赴き金を取って来るから其金が出来た上で医師の診療を受け給へなど言ひ慰めて外出せしが其の帰来せし時は清水は已に人事不省となり居り居士があわてて医師を聘し来りし瞬間に終に絶命し了ったのであった。
居士は其の死因の幾分が自分の不注意にあるものゝ如く感じ自責の念に駆られて少なからず痛心せしためか稍や放心度を失はんとせしが「升(のぼ)さんシッカリおしや」と秋山に一喝されて漸く我に返り自ら施主となりて野辺の送りも滞りなく取行ひ其顛末を郷里の清水家に報告せし長文の書が子規全集の「書簡壱」に載ってゐる。又「清水則遠氏」なる当時の状況を詳叙せし一篇は「筆まかせ」に掲げられてゐる。板垣時代に於ける居士としては清水の急死が最も深刻なる衝撃を与へし大事件であったのである。 柳原極堂「子規の〈下宿がへ〉に就て」[注-極堂の『友人子規』にもこれと同様の記述がある。]


柳原が伝えているように、秋山真之の一喝を受けた後の子規は自ら喪主となって、そのつとめを果たし、則遠の遺族に対しても委細をしたためた丁重な手紙(巻紙で8メートルを超える。松山市立子規記念博物館に展示。講談社版『子規全集』第18巻に翻刻)を送っている。それだけでなく、周囲から寄付を募って集めた金で画家に則遠の肖像画を描かせ、遺族にその絵を贈るということまでしている。子規の依頼を受けて肖像画を松山の遺族に送り届けた岩崎一高は当時を回顧して、「その翌晩(注-則遠の死の翌晩)にわれわれは通夜に行った。正岡が主になっていろいろと話をしてわれわれから十銭、二十銭と金を集めそれで清水の肖像をかかせこれを私がこちらに帰るので携へて帰ってそれを遺族に贈った。多分それは今でも清水則備君のうちに保存されてゐるはずだ。そんなことは正岡でないと誰も気のつかないことで、正岡といふ男は非常に友情に厚い男であった」(座談会「子規を語る」昭和6年)と述べている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆) 講談社 1975年5月
『子規全集』別巻3(回想の子規 附補遺) 講談社 1978年3月
松山市教育委員会編『伝記 正岡子規』子規記念博物館友の会 1979年2月

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明治25年千島艦堀江沖遭難の記事

明治25年(1892)11月30日、愛媛県和気郡堀江(現在の松山市堀江)沖で水雷砲艦千島がイギリス船ラベンナ号と衝突・沈没、乗員70余名が溺死するという海難事故が発生した[注]。翌月2日、新聞「日本」にはこの惨事を伝える次のような記事が掲載された。

海の藻屑
奔浪怒涛の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ船端なくとつ国の船に衝き当るよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦巻く波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の値問はまほし。
ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ


時事俳句入りのこの記事を書いたのは正岡子規。子規は明治25年12月1日(千島艦遭難の翌日)、日本新聞社に記者として入社、最初に書いた記事がこの故郷での惨事を伝える「海の藻屑」であった。以後、子規は時事俳句入りの記事を次々と書くことになる。子規にこうした形式の記事を書かせたのは日本新聞社編集格の小嶋一雄であるが、彼は子規の没後、「今となって見るとこんな事に君を煩したのは気の毒であったと後悔するが負ける事の嫌な君は快く此注文を引受けて是より日々の紙上君が俳文若しくは俳句を見ざるの日はなかった」と述べている。

[注]-実際の沈没位置は釣島水道であったらしいが、事故当時より堀江沖の衝突・沈没とされている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2) 講談社 1971年10月
『子規全集』別巻2(回想の子規1) 講談社 1975年9月
『国史大辞典』第9巻(「千島艦事件」の項) 吉川弘文館 1988年8月
和田茂樹『子規の素顔』愛媛県文化振興財団 1998年3月
『ふるさと ほりえ発見の旅』堀江公民館 2000年9月

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三津の渡し(1)

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三津の渡し(港山の渡し)」については『愛媛県史』に次のような記述がある。

港山の渡しは、松山港内港口にある幅101メートル(満潮の場合)の水道をはさんで、南岸の三津一丁目(旧須先町)と北岸の港山町を結ぶ渡しである。三津側からは「三津の渡し」「須先の渡し」とも呼んでいる。渡しの起源は不詳だが、応仁年間、港山城主河野通春が毎朝城兵の米穀や野菜を運ばせたのがはじまりといわれている。下って明治初年、町大年寄だった向井団四郎(三津浜築港事業の先駆的功労者)が、この渡しをまたぐ架橋の設計図を残していることからみて、明治に入ったころにはかなりの往来があったものと考えられる。三津浜町当局は、町道として無料の渡し船を運航していたが、昭和15年、同町が松山市に合併されると市営にかわり、以後も無料で運航されている(現在は松山市道高浜三五六号)。長い間手漕ぎ船で渡していて、乗客が船頭に代わって櫓を漕ぐこともあり、牧歌的風情があったが、昭和45年から長さ8メートル余のエンジン付きの船に代がわりした。時刻表は決まってなく利用者があれば往復する形態だが、1時間平均9往復するという(船頭は正規の市職員)。


「乗客が船頭に代わって櫓を漕ぐこともあり」云々というのは、手漕ぎ船の時代、実際にしばしばあったことで、やってみようという乗客には、櫓漕ぎを試させてくれた。乗り合わせた乗客も素人の操船を不安がるふうもなく、むしろそれを面白がるといった風情。たいていは船がとんでもない方向に向かったりして、途中で船頭さんに櫓を返すはめになる。なお、上引の記述には「現在は松山市道高浜三五六号」とあるが、渡し場(三津側)に設置されている案内板によると、「正式名称は松山市道高浜二号線の一部(約八〇米)」である。

【典拠文献】
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986年3月

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三津の渡し(2)

1978年刊行の佐々木忍著『松山有情』によると、「三津の渡し」があるところは、大正の末期ごろまで干潮時には歩いて渡ることができたのだそうである。同書に載せる港山の古老の話、「干潮のときは歩いて渡っていましたが、それでも、まん中あたりは水が流れておりまして、伝馬船を縦に置いて橋がわりにしておりましたなあ。渡し賃は片道が一銭でした。朝の四時ごろになると高浜や梅津寺あたりから魚市場に行くオタタさんが行列になって、潮のひいた砂浜を渡っておった風景が今も目に浮かびます」。「オタタさん」というのは魚売りをする行商の女性である。

同書はまた当時の渡し船の船長さんの話も載せている。「エンジン船になってからは、体は楽になったが一日中だまって仕事をしているんもしんどいぞな。エンジン船の音が高いので話が聞こえんのよ。櫓の時代は静かだったから、面白い話がはずんだなあー。一日中、同じことをしていると、客から話しかけてくれるんが楽しみでなあ。船長じゃの、兄さんじゃの、おじさんじゃの言うてなあ。利用する人も、夏休みになると、見知らん人も乗るけんど、たいていは知っとる人ぎりよ。もうなあ、どこへ勤めていることまでわからいな」。渡し船が手漕ぎ船からエンジン船にかわったのは昭和45年(1970)である。

1960年発行の『三津浜誌稿』によると、昭和初年には「三津の渡し」に橋を敷設する計画もあったようである。同書は次のように記している。「昭和初年鉄道を朝日橋から導入し三津浜町の市街地を貫通し、三津浜港に臨み港から朝市をへて、此の渡場に至り閉開橋なるものを架し、古深里から梅津寺高浜に至る路線も計画されたという」。

「三津の渡し」は市営で年中無休(運航時間7時~19時)、無料。船が対岸にとまっている場合でも、発着場のブザーを押せばすぐに迎えに来てくれる。自転車をのせることも可。近年はテレビ番組などでしばしば「三津の渡し」が紹介されている。1998年の映画《がんばっていきまっしょい》のロケ地ともなった。

【典拠文献・参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
佐々木忍『松山有情』愛媛県教科図書株式会社 1978年5月

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三津の渡しは自転車も乗船可。


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