江藤淳の道後温泉訪問記

江藤淳(文芸評論家)の「漱石のなかの風景」と題するエッセーに道後温泉のことが語られているので引用しておこう。江藤淳が1970年代に松山を訪れたときの印象が同エッセーでは語られている(便宜上三段に分けて引用する)。

少し寝坊をしたかなと、あわてて宿の玄関にまで出て行くと、もうA記者が丹前姿で待っている。朝七時半ごろである。
「早いですな」というと、
「道後温泉は、六時からやっているそうですよ」という返事であった。
私たちは、これから漱石の坊っちゃんが赤手拭をぶら下げてかよった道後温泉の朝湯に行こうというのである。(中略)
松山は、どこへ行っても子規と漱石という感じだが、漱石がこの町にいたころの面影をとどめているのは、三番町の旅館木戸屋の玄関のほかには、この道後温泉くらいなものである。昭和二十年七月の空襲が、通常兵器による爆撃では広島に匹敵するといわれるほど徹底的なもので、市街区の大半を焼き払われてしまったからである。


「旅館木戸屋」とあるのは、きどや旅館(城戸屋旅館)跡のことである(現在旅館としての営業はしていない)。明治28年、漱石が松山中学の英語教師として赴任したとき、最初に宿泊したのがこのきどや旅館である(『坊つちやん』に出る山城屋のモデル)。漱石はこのきどや旅館から一番町の愛松亭の二階に移り、さらに二番町上野方の離れ(愚陀仏庵)に移り住んだ。愚陀仏庵は城山ふもとの萬翆荘の裏側に再建されている。

早朝だというのに、道後の土産物屋はもう店を開けはじめている。そのアーケードをぬけたつき当りが、大きなお寺の本堂のような道後温泉の建物だ。大衆料金は四十円だが、坊っちゃんが八銭奮発してかよった上等は、今では一人前百二十円とる。階上にあがると、昔のままに浴衣をかしてくれて、湯上りにはお茶が出るらしい。しかし茶釜と並んでオロナミン・C・ドリンクや、コカ・コーラが置いてあるのが七〇年代である。


ここに記されている料金はすでに改定されている。

道後の湯は肌ざわりが柔かく、たいして熱くはないが、身体(からだ)の芯からあたたまるので心持がよい。A記者が「立って乳の辺まである」湯壺をつっきって、お湯の落ち口に立つ。入浴客はこの時間は地元の御隠居さんたちが多いらしく、観光客らしい人々の姿はあまり見あたらない。
湯気ごしに湯壺の上をみると、石に女神のようなものが浮彫りにしてあって、そのわきに万葉仮名らしいものが彫りつけてある。「ちはやぶるかみよの…」などと書いてあるらしいが、湯気がけむってよく読めない。しかし、この道後温泉が開業したのは、漱石が愛媛県尋常中学校教諭として松山に赴任した前年の明治二十七年(1894)である。つまり彼は「坊っちゃん」にあるように、「新築」したばかりのこの温泉にかよったのである。
係の女の人が「天目へ…載せて」出してくれたお茶でのどの渇きをうるおして、ぶらぶら宿に戻りかけると、正月十四日というのにもう春の気配がする。
春やむかし十五万石の城下かな
という子規の句が、ふと頭に浮ぶ。なんだかまた少し眠くなって来た。漱石がこの松山に一年しかいなかったわけがわかるような気がする。


「ちはやぶるかみよの…」とあるのは、千家尊統(たかつね 出雲大社宮司)の歌「ちはやぶる神代(かみよ)ながらの出で湯にはあやにかしこき御魂(みたま)さきはふ」で、湯釜(「神の湯」西浴室のもの)に彫られているのはその万葉仮名「知波弥布留可美世那賀良乃伊伝湯爾波阿弥爾可志古支美多麻左支波布」である。「天目へ…載せて」は、『坊つちやん』の「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭ですむ。その上に女が天目へ茶を載せて出す」という一節を受けたものである。

【典拠文献】
『漱石全集』第2巻 1994年1月
江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮文庫(改版) 2006年3月

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道後温泉本館の湯釜

道後温泉本館の湯釜について記しておこう。
「神の湯」男湯東浴室の湯釜-明治27年2月の制作。香川県の庵治石が使われている。頂上宝珠形の蓋上の銘は「伊予国風土記」逸文の「真蹔寝哉」。読みは「真蹔(ましまし)寝(い)ねつるかも」で、「暫くの間、寝たことよ」(「ま」は接頭語、「しまし」は少しの時間、「かも」は詠嘆の助詞)という意。少彦名命(すくなひこなのみこと)が出で湯の効果で蘇生したときに発した語である。字は旧松山藩主久松勝成の筆になるもの。正面の彫刻は大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命の二神像で、山田衛居のデザイン。「真蹔寝哉」の銘とこの二神像は尾道の石工石井源兵衛が手がけた。湯釜本体の制作は松山の石工今岡愛三郎。本体には山部赤人が「伊予の温泉に至りて」詠んだ「皇神祖之(すめろきの)~」の長歌(万葉集・巻3の323)が彫られている(同じく今岡愛三郎の刻)。長歌の字は書家日下部東作(鳴鶴)の揮毫である。

「神の湯」男湯西浴室の湯釜-出雲大社82代宮司、千家尊統(たかつね)の歌「ちはやぶる神代(かみよ)ながらの出で湯にはあやにかしこき御魂(みたま)さきはふ」が万葉仮名で「知波弥布留可美世那賀良乃伊伝湯爾波阿弥爾可志古支美多麻左支波布」と彫られている。「知波弥布留(ちはやぶる)」は神にかかる枕詞。「阿弥爾(あやに)」は「霊妙ふしぎに。言いようもなく」。「可志古支(かしこき)」は「おそれおおい。もったいない」。「左支波布(さきはふ)」は生命力の活動が活発に行われるという意。この西浴室の湯釜はもと「神の湯」の女湯のものであったらしい。

「神の湯」女湯の湯釜-明治29年の制作。出雲大社80代宮司、千家尊福(たかとみ)の歌「むかしより絶えぬ流れもさらにまた湧きいづる湯のしるしをぞおもふ」が万葉仮名で「無嘉志与理多延努奈我麗母佐良耳麻太和幾伊豆留湯廼志留志乎叙淤母布」と彫られている(千家尊福は「年のはじめのためしとて~」の作詞者)。湯釜の上部には大国主命と少彦名命の二神像が置かれている。

「霊(たま)の湯」の湯釜-明治32年6月の制作。銘は当時の文部大臣、樺山資紀の筆で「霊」。

「又新殿」の湯釜-銘は小松宮彰仁親王の筆で「健歩如故」。読みは「健歩、故(もと)の如し」、「(温泉に入ると)もとのようにしっかりと歩けるようになる」という意であろう。二神像のレリーフは山田衛居のデザインである。

【参考文献】
秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店 1958年3月
「道後温泉」編集委員会編『道後温泉 増補版』 1982年3月
『愛媛県百科大事典』下巻(「道後温泉」の項) 愛媛新聞社 1985年6月

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春の雪

立春を過ぎれば暦の上では春。立春以降も寒気はまだ厳しく、地方によっては雪が降ることもある。立春以降に降る雪、春の雪…春に降る雪はよく和歌によまれている。

春がすみ立てるやいづこみよしのの吉野の山に雪はふりつつ


例示したのは『古今和歌集』のよみ人しらずの歌。「立春が過ぎたのに春霞はたたず、ここ吉野山には雪が降りつづいている」が一首の意である。古代人にとって春の雪は格好の歌材であり、早春の歌にふさわしい趣向であった。丸谷才一によると、春の雪は、古代人にとって不快なもの、いやなものでは決してなく、秋の豊作を約束する瑞祥であったという(おおもとは折口信夫の説)。春の雪は稲の花を連想させるもので、立春以降、雪が降れば、秋は豊作になると古代の人びとは考えた。春の雪を歌にするのはその瑞祥をことほぐ祝言の心意があるがためである。丸谷才一はそう指摘している。この指摘に従うと、上引の一首も単なる吉野山の歌ではなく、国土全体を祝福する意図をもった歌ということになり、歌のスケールが一挙にひろがる。

【典拠文献・参考文献】
奥村恆哉校注『古今和歌集』新潮日本古典集成 1978年7月
丸谷才一『新々百人一首(上)』新潮文庫 2004年12月

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「お船手細工」

高浜虚子のエッセー「三津ケ浜出港」(初出「ホトトギス」昭和30年11月)に、三津の船手が内職で作っていたという「お船手細工」についての記述があるので引用しておこう。

その頃の伊予鉄(汽車)はまだ高浜港迄延びてゐなかった。三津ケ浜といふところで止まってゐた。
その頃の高浜といふのは小さい漁村に過ぎなかった。三津ケ浜の方が旧藩時代からの港であって、一つの町を成してゐた。其処には昔お船手衆と称する者が住んで居た。それは殿様が参覲交代で江戸へ出掛けられる時、乗船の世話をするものであった。私の子供の頃は、そのお船手衆であった人々は、もう老人になってしまってゐたが、只「お船手細工」と称へる竹籠がまだ其老人達の手によって造られて市場に出てをった。其お船手衆は小身であった為に、内職に竹籠を編むで其を売捌いてゐたものであった。(中略)このお船手細工は手のこんだ物ではあったが、都会人の好むやうなすっきりした処がなかった。其後松山あたりでもだんだんと売れなくなって来て今ではもう殆ど後を断ったものと考へる。


船手は藩の御用船の操船・管理にあたる下級武士。藩政時代、町人のまちであった三津の一郭に船手の基地(御船場)とその居住区があった。町人地とは厳然と区別され、混住・往来することはなかったという。[注-三津の船手については、当ブログ09年6月25日記事を参照していただきたい。]

【典拠文献】
『定本高浜虚子全集 写生文集(二)』第9巻 毎日出版社 1974年6月
松山市史編集委員会編『松山市史』第2巻 1993年4月

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ウォーキング推奨の先覚者

日本でウォーキングの健康効果を早くから認識していたのは、貝原益軒(1630-1714)であろうか。その著『養生訓』において益軒は、「身体は日々少しづつ労働(注-運動の意)すべし。久しく安坐すべからず。毎日飯後に、必ず庭圃の内数百歩しづかに歩行すべし。雨中には室屋の内を、幾度も徐行すべし。如此(かくのごとく)、日々朝晩運動すれば、針、灸を用ひずして、飲食、気血の滞(とどこおり)なくして病なし」と述べ、日々欠かさず歩くことを推奨している。益軒が勧める食後「数百歩」程度の歩行では運動量として少なすぎるような気もするが、無用の行いを慎む風のあった江戸時代、歩くことを勧めるだけでも、画期的なことであったには違いない[注]。明治になると、幸田露伴(1867-1947)が歩くことを勧めている。明治32年(1899)の夏に書かれた『一国の首都』の中で露伴は、東京の住民に「戸内に蟄伏することを悦ぶ習慣」があるのは「甚だ愧づべきこと」で、「早晩これを改めて戸外の逍遥(注-散歩の意)を好む良習慣に換へざるべからず」と述べている。露伴によると、「戸外に逍遥するを悦ぶ」のは、「陽性の事」で「おのずから無益の慾念を放散する傾きがあり、脳裏を清新にする、結果は安眠也」だが、「室内に蟄居するを愛する」のは、「陰性の事」で「おのずから無益の慾念を興起する傾きがあり、脳力を疲弊せしむ、結果は悪夢也」という。益軒、露伴はともに歩くことが健康の増進になると説いた。益軒は次のようにも説いている。「心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず」。心を安らかにし、運動を怠るな。益軒はそれを健康の極意としていたようである。

[注]-江戸時代、散歩することは「犬川などといひて卑しむ傾き」(幸田露伴『一国の首都』)があった。「犬川」は犬の川端歩き、すなわち無用のことという意味である。大佛次郎(おさらぎじろう)のエッセーには、江戸時代、散歩は「遊び人か隠居だけに許されること」で、「はしたないことで、してはならぬ行儀であった。散歩は、やはり西洋人が来て教えた」(「散歩について」)と記されている(当ブログ09年4月10日記事参照)。歩くことを勧めた貝原益軒も戸外の道路往来を歩行せよとは言っていない。「庭圃の内」「雨中には室屋の内」を歩行すべしと言っている。

【典拠文献・参考文献】
貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫 1961年1月
『大佛次郎随筆全集』第2巻 朝日新聞社 1974年1月
幸田露伴『一国の首都』岩波文庫 1993年5月

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