愛媛松山の文化的風土

愛媛新聞に連載中の記事「従軍記者正岡子規」で、執筆者の末延芳晴は、取材調査で松山を訪れた際の印象として、この地にある「子規文化とでも呼ぶべきものの伝統の長さ」と「懐の深さ」「裾野の広がりの大きさ」に「驚かされた」と書いている。加えて、「郷土が生み出した文学者をこれほど大切に思い、その精神を受け継ごうとして、市を挙げて取り組んできた例は日本全国ほかにないといっていいだろう」とも書き記している(愛媛新聞09年11月23日掲載)。これは連載の初回の記事だから、地元へのサービスという意味合いもいくぶん含まれているにはちがいない。

現代の代表的な詩人の一人大岡信は、子規に関するセミナーで、「松山は文化的に水準の高いところです」、「松山という町が文化的に豊かな土壌をすでに持っていて、その土壌に生みつけられた種のひとつが、正岡子規であり、高浜虚子であり、河東碧梧桐であったのです。それが幸せだったと思います。近代から現代に至る俳句においても、松山という土地がどうしてあんなにすごい連中を生んだかということの秘密にもかかわりますけれども、皆さま方ご存じの現代の俳人で言えば、中村草田男、それから石田波郷ですね。そして、波郷を少年期に俳句に導き入れた五十崎古郷という俳人、みんな松山地方の出身です。彼らは正岡子規たちがここから出たということだけで、自分を支えるエネルギーを得ているのです」といっている。松山の豊かな文化的土壌が子規を生み、子規が出たことで、それにつづくものたちが力の源泉となるべきものを得た。なるほどこれは子規文化といっていいものなのかもしれない。

司馬遼太郎と大江健三郎がテレビ番組の収録で、松山を訪れたときの話。二人はホテルで朝食をともにしながら雑談をしていた。司馬は快活に話し、後ろのほうにいた別の二人の客も司馬の方をうれしそうに見ていた。話の中で司馬が、「愛媛は非常に文化的ですね。高知はあまり文化的ではないですね」と語ると、後ろのほうにいたその二人の客の表情が突然険しくなり、近づいてきて、「司馬先生、お久しぶりです。高知県庁の〇〇です。先生、高知県が文化的でないとはどういうことでしょうか」と詰問したという。大江健三郎は後日、「司馬さんはほとんど失敗をなさらない方だが、あれは失敗でした」と語ったそうである。

【参考文献】
大岡信『正岡子規-五つの入口』岩波書店 1995年9月
「司馬さんの控室 担当記者が見たあの日 大江さんと司馬さん」(『未公開講演録愛蔵版Ⅵ 司馬遼太郎が語る日本』朝日新聞社 1999年7月)

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

「さよよ」

松山方言に「さよよ」というのがある。久しく聞かれないので、死語と化しているのかもしれないが、子供時分にはよく耳にしていた。松山出身の俳人中村草田男は、「松山の上品な老人などは、相手の言葉を穏やかに肯定するときに、必ず〈さよよ〉というのが常である」と述べている。

【参考文献】
中村草田男『子規、虚子、松山』みすず書房 2002年9月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 雑記
ジャンル : 学問・文化・芸術

水の味

優れた味覚の持ち主であったあるイギリス人の食通も、水の味だけはわからなかった、という話を伊丹十三がしている。「かわいそうなものです。日本人ならだれだって知ってるだろう水の味がわからない」「日本人であるわれわれは水の味のわからぬ食通にだけはなるまいぞ」-伊丹はそう言っている。

江戸時代の儒者、貝原益軒はその著『養生訓』で、「水は清く甘きを好むべし。清からざると味あしきとは用ゆべからず。郷土の水の味によって、人の性(うまれつき)かはる理なれば、水は尤もゑらぶべし」と説いている。小泉武夫(発酵学・醸造学)によると、これは深い意味を有する訓文で、まさしく益軒が説いているように、良い水というのは甘く感じるものが多いのだそうである。飲む水によって、その人の性質までが変わる(郷土の水の味によって、人の性かはる)というのも、そのとおりであるかもしれない。

名水というのは、山の湧き水に似ているが、土臭さがなく、かといって、雨水のようにフニャフニャというものでもない、日本人はそれを「甘い」とか「丸い」とか表現してきた、と小泉武夫はいう。水の味が「甘い」「丸い」-伊丹の話に出たイギリス人の食通の発言は、「水にうまいまずいはないだろう」であった。

日本列島の水というのは鉄がほとんど含まれておらず、純水に近いということである。日本酒の場合、仕込み水(原料水)の中に0.02ppm以上の微量の鉄が含まれていると、もう酒にはならない。鉄がそれ以上あると、できた酒は錆びたように赤褐色になってしまい、市場性を失うのだそうである。鉄が0.02ppm以下という貴重な水があるのは、不思議なことに、世界の中でも日本列島だけであるという。

【典拠文献・参考文献】
貝原益軒著・石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫 1961年1月
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月
小泉武夫『人間はこんなものを食べてきた』日経ビジネス文庫 2004年2月
伊丹十三『女たちよ!』新潮文庫 2005年3月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 雑記
ジャンル : 学問・文化・芸術

「三津江内修繕碑」

CIMG2293_convert_20110618124453.jpg

DSCF1638_convert_20110618124341.jpg

三津江内修繕碑
吾予州三津港之地形彎入数町成川状俗呼曰江内川往時
旧藩之際畳石于岸為船舶繋泊処於是得遠近商客避風波
之便且市街致繁盛之基焉天保中別築大埠於港口而小船
之輻湊固自若也明治廃藩修繕途絶岸礁崩壊船舶者苦之
本街人二神清八等深憂之与同志議遂募闔市共有金及其
接近六街之醵金充費同志者亦出若干金補之填江内堀陸
地各一百三十歩有奇以本年十月中澣剏工同十二月上澣
功竣其便利倍旧可知也夫人情為一身計易為衆人計難苟
拡為衆之心則為天下起大業亦弗難矣清八等建碑図不朽
請余文余於此挙有所感故紀其顛末以与之
明治二十二年十二月 愛媛県松山 浦屋寛制撰

町会議員補助員 土屋富三郎
泉喜七郎 森栄次郎
泉守次郎 石崎平八郎
古代卯吉 森本団蔵
梶川平九郎 田中卯吉
松田歓次郎 仙波鷹太郎
須之内安太郎 越智伊太郎
仲田忠八 嶋田好太郎
三木唯次郎 高橋友光
大原正弥 怱那政次郎

岸築工 村上民蔵
碑石工 岡田石太郎

聯合町会議員兼工事委員
二神清八 鈴木利平 山本友太郎
聯合町会議員
天野儀平次 木村松次郎 
越智作太郎 宮本芳一
松井栄一郎 今井義晴
有田幸隆 前原久明
中本良久 二神広八
北村卯八



[訓読文]
吾が予州三津港の地形は彎入すること数町、川状を成し、俗に呼びて江内川と曰う。往時、旧藩の際、石を岸に畳みて、船舶繋泊の処と為す。ここにおいて、遠近の商客、風波を避くるの便を得、且つ市街繁盛の基を致す。天保中、別に大埠を港口に築き、而して小船の輻湊(一か所に集ること)、もとより自若なり。明治の廃藩より修繕途絶し、岸礁崩壊して、船舶の者これに苦しむ。本街の人、二神清八(1833-1893)等深くこれを憂え、同志と議して遂に闔市(こうし。町全部)の共有金及びその接近六街の醵金を募り、費に充(あ)つ。同志の者また若干の金を出してこれを補う。江内を填め、陸地を堀ること各一百三十歩有奇(余りの意)、本年十月中澣(中旬の意)を以て工を剏(はじ)め、同十二月上澣(上旬の意)、功を竣(お)えたり。その便利、旧に倍すること知るべきなり。それ人の情、一身の為に計するは易く、衆人の為に計するは難し。苟しくも衆の為にするの心を拡ぐれば、則ち天下の為に大業を起こすこともまた難からず。清八等、碑を建て不朽を図り余に文を請う。余この挙において感ずるところ有るが故にその顛末を紀して以てこれに与う。
明治二十二年十二月 愛媛県松山 浦屋寛制撰

明治22年(1889)三津内港の改修を記念して建てられたもの。
所在地=松山市住吉2丁目9番地(辻井戸横)
撰文=浦屋寛制(1840-1898)。号は雲林。松山藩祐筆。のち私塾桃源黌を開いて漢籍を教授。正岡子規の漢詩の師でもある。

【参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
和田克司「正岡子規と明治の三津浜」(「明教」13号 1982年12月)
森元四郎・浦屋薫「三津と浦屋雲林」(「子規会誌」百年祭記念号 2001年10月)

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

「愛媛唱歌」全文

明治42年(1909)に発表された「愛媛唱歌」(田中好賢・景浦直孝作歌/田村虎蔵作曲)については、当ブログ09年11月18日の記事でその一部を紹介した。同唱歌は著作権保護期間満了となっているので、下にその全文を掲載しておくことにしよう。

一、常磐の松の色深く 姿雄々しき勝山の 城を囲みて一万の 家立ちならぶ松山城
二、愛媛県庁影映す 昔ながらの濠の水 濠の内には兵営の ラッパの音ぞいさましき
三、実業の林枝栄え 五色素麺伊予飛白(かすり) 学びの園生(そのふ)花繁く 師範中学女学校
四、国道県道こゝに出て 土佐に讃岐に通ふべく 附近は汽車の便ありて 交通殊に盛なり
五、魚市開く三津ケ浜 七年の後想ひ見よ 築港成らば一県の 関門こゝに開かれむ
六、出船入船(でふねいりふね)絶間なき 高浜港内水深く 海水浴に名を得たる 梅津寺浜砂白し
七、夕日をふくむ興居島の 小富士の姿麗しく 遍く植うる桃林檎 春の眺めもおもしろや
八、神の御代より開けたる 道後の温泉今も猶 功験(しるし)変らぬ名の高く 遠近人(をちこちびと)ぞ集ひくる
九、日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)の御車(みくるま)を 迎へまつりてよろこびを 咲き誇るなり公園の 雲と見まがふ桜花
一〇、石手の寺の鐘の音の 音にきこゆる湧ケ淵 水せきとめてぬばたまの 闇照らさむと発電所
一一、土居得能の義を挙げて 北条探題破りたる 跡に聳えて表忠の 碑(いしぶみ)高し星の岡
一二、重信川の鉄橋を 過ぐればこゝぞ砥部の村 淡黄焼の製造所 伊予砥の産も亦多し
一三、今出にカナの功をめで 松前に義農の跡を訪ひ 郡中浜におりたてば 彩浜館の眺めあり
一四、近江聖人生ひたちし 大洲の町は肱川の 水明らけく神南の 山紫に小京都
一五、大洲の生糸内子蝋 山と積みたる産物を 送る川舟数多く 寄せて賑ふ長浜港
一六、出石寺山峯高く 霧の絶間にほの見ゆる 荒浪さわぐ海原を 臥せるか龍の佐田の岬(さき)
一七、佐田の岬(みさき)は塩成(しほなし)や 三机港や三崎港 到る所に銅多く 佐島に立てる精煉所
一八、人は富みたり八幡浜 港は深し川之石 紡績の業(わざ)早くより 開けて今も盛なり
一九、山立ち囲む宇和の町 辺(ほとり)に松葉の城趾あり 西園寺氏の其かみを 語るか樹々を吹く嵐
二〇、野村に出づる泉貨紙は 精良多額の聞えあり 吉田の町に遠からぬ 立間に蜜柑の良種あり
二一、犬寄(いぬよせ)鳥坂(とさか)法華津(ほけつ)越 夜昼峠夜昼の けぢめもあらず旅人の 今はやすけく過ぐる世や
二二、九島風波を遮りて 自らなす樺島の 港のぼれば宇和島町 県下南部の名都邑
二三、鶴島城の秋の月 天赦の園の春の花 月花よりもめではやす 和霊の神の績(いさを)かな
二四、南海の奇傑元親(もとちか)を 防ぎて民を救ひたる 大森城主清良の 跡をや訪はむ三間の里
二五、広瀬の川の左には 城辺の町小なれど 西欧の国にありといふ 闘牛の奇習盛なり
二六、布をさらせる布曳や 雪とちりかふ雪輪瀑(ゆきわたき) 鬼が城山分け入れば 仙寰(せんくわん)こゝにひらけたり
二七、漁舟点々宇和の海 日振の島は純友の 拠りて叛きし天慶の 昔の跡ぞ残りける
二八、久米の南の播磨塚 小楯の塚は荒れたれど 二王を君にすゝめたる 勲(いさを)は長くかゞやけり
二九、川上過ぎて打渡る 橋は名に負ふ曙の 桜三里の坂越えば 千原や来見(くるみ)丹原町
三〇、岩を穿ちて久万川の 水を稲田に注ぎたる 仰西翁の功徳は 流れと共につきざらむ
三一、三坂越えゆく久万町は 土佐街道の要地にて 御三戸(みみど)の岩や岩屋山 耶馬渓山にさも似たり
三二、闇を破りて四百間 松明(ともし)に映る鍾乳の 石白玉(はくぎょく)の林なす 鬼神のわざか羅漢穴
三三、荊棘(おどろ)が下をふみわけて 新に拓く土地数里 千軍万馬馳せちがふ 大野ケ原の演習地
三四、鹿島の祠(やしろ)神(かん)さびて 水に映れる其様は 蜃気の楼か浮島か 北条港の夕景色
三五、道前道後を分つなる 高縄山の頂に 伊予の名族河野氏の 累代の城趾残りたり
三六、元兵十万何かせむ 日本男子(やまとをのこ)の腕見よと 虜将を斬りし其人は 河野通有(みちあり)武士の花
三七、君が宮居の御甍(みあらか)に 瓦まつりし菊間町 来島瀬戸の波止浜は 塩やく煙豊かなり
三八、吹上の城蒼社川 伊予の浪華の称へある 今治町は綿ネルの 産出多き所なり
三九、大山祇(おほやまつみ)の尊(みこと)をば いつきまつれる大三島 大島伯方岩城島 商船学校弓削にあり
四〇、粟を撒きたる群島の 中にもしるき沖の島 篠塚伊賀の古蹟にて 春は漁猟の名区なり
四一、夕催ふす春雨に さびしく暮るゝ国分寺 朝日に匂ふ桜井の 村に漆器の産多し
四二、興国の昔脇屋卿 無限の恨もたらして 孤忠空しく露と消ぬ 風ふきすさぶ唐子山
四三、ゆくて遥けし筑紫潟 都の空をかへり見て いこひ給ひし菅公の 跡や綱敷天満宮
四四、傘作るなる壬生川に 賊をふせげる大館氏 氏明、守を失ひて 南風競はず世田の山
四五、小松の緑長へに 伊予聖人の名も高く 今もつきせぬ篤山の 徳を伝ふる小松町
四六、小松につゞく氷見の町 貝に名のある西条町 安質母尼(アンチモニイ)の産出は 世界一なる市の川
四七、潮干につゞく御代島の 眺めにあかぬ新居浜は 商業栄え多喜浜の 塩田近き所なり
四八、振りさけ見れば石鎚の 峯東方にそゝりたつ 十月早く雪ありて 海抜六千五百尺
四九、元禄以来日に月に 力つくして採鉱の 道開きたる別子には 純良の銅多く出づ
五〇、煤煙天に漲りて 四坂の島の製煉所 鎔鉱反射の炉の光 やがてぞ富の光なる
五一、三島神社の三島町 紙や煙草や二六焼 川之江町は寛政の 博士二洲の生地なり
五二、愛媛の県(あがた)伊予の国 西、宇和の海高し 北、内海の水清く 向う九州山陽道
五三、分けゆく船の前後(まへうしろ) 島又島に飾らるゝ 瀬戸内海の装(よそほひ)は 世界に類なしときく
五四、四国山脈南境に 高く聳えて源を こゝに発する川多く 肱川広見面河川
五五、鋸の歯にたとふべき 海岸線は三百里 良港多く浪静か 上り下りの船しげし
五六、釣島大下百貫の 島に設けし灯台は 光達二十海里にて 諸船(もろふね)仰ぐ
五七、二名の島と神代より 世に知られたる伊予の国 寒からず又暑からず 物多くして人足れり
五八、描くが如き山と川 おもひ出多き歴史なり これの御民(みたみ)と生れたる 幸を伝へよ万代(よろづよ)に



【典拠文献】
田中好賢・景浦直孝作歌、田村虎蔵作曲『地理歴史愛媛唱歌』土肥文泉堂 1909年10月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード