椿まつり
三津稲荷新地の遊郭
三津の東新地には十軒茶屋と呼ばれる遊郭があった。『三津浜誌稿』によると、この十軒茶屋は明治26年(1893)に稲荷新地に移転。当初は東西の一筋町であったが、のちに南北の一筋町が増えて、稲葉楼・朝日楼・敷島楼・吾妻楼・いろは楼・日英楼・日新楼・三福楼・新月楼・八千代楼・住吉楼・鈴の家・一力楼・勝利楼の14軒が貸座敷(茶屋)として営業、130余名の娼妓がいたという。活況を呈していたのは大正時代から昭和初年にかけてであったらしい。遊郭のあった稲荷新地は旧船場町の西南部、船場町は藩政時代の御船場(松山藩の水軍基地)を維新後に埋め立ててできた町である。稲荷新地という呼称は町内に稲荷神社があったことに由来するものであろう。松山地方の遊郭はこの三津稲荷新地と道後松ケ枝の二か所であった。
【参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月

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【参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
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愛媛松山の文化的風土
愛媛新聞に連載中の記事「従軍記者正岡子規」で、執筆者の末延芳晴は、取材調査で松山を訪れた際の印象として、この地にある「子規文化とでも呼ぶべきものの伝統の長さ」と「懐の深さ」「裾野の広がりの大きさ」に「驚かされた」と書いている。加えて、「郷土が生み出した文学者をこれほど大切に思い、その精神を受け継ごうとして、市を挙げて取り組んできた例は日本全国ほかにないといっていいだろう」とも書き記している(愛媛新聞09年11月23日掲載)。これは連載の初回の記事だから、地元へのサービスという意味合いもいくぶん含まれているにはちがいない。
現代の代表的な詩人の一人大岡信は、子規に関するセミナーで、「松山は文化的に水準の高いところです」、「松山という町が文化的に豊かな土壌をすでに持っていて、その土壌に生みつけられた種のひとつが、正岡子規であり、高浜虚子であり、河東碧梧桐であったのです。それが幸せだったと思います。近代から現代に至る俳句においても、松山という土地がどうしてあんなにすごい連中を生んだかということの秘密にもかかわりますけれども、皆さま方ご存じの現代の俳人で言えば、中村草田男、それから石田波郷ですね。そして、波郷を少年期に俳句に導き入れた五十崎古郷という俳人、みんな松山地方の出身です。彼らは正岡子規たちがここから出たということだけで、自分を支えるエネルギーを得ているのです」といっている。松山の豊かな文化的土壌が子規を生み、子規が出たことで、それにつづくものたちが力の源泉となるべきものを得た。なるほどこれは子規文化といっていいものなのかもしれない。
司馬遼太郎と大江健三郎がテレビ番組の収録で、松山を訪れたときの話。二人はホテルで朝食をともにしながら雑談をしていた。司馬は快活に話し、後ろのほうにいた別の二人の客も司馬の方をうれしそうに見ていた。話の中で司馬が、「愛媛は非常に文化的ですね。高知はあまり文化的ではないですね」と語ると、後ろのほうにいたその二人の客の表情が突然険しくなり、近づいてきて、「司馬先生、お久しぶりです。高知県庁の〇〇です。先生、高知県が文化的でないとはどういうことでしょうか」と詰問したという。大江健三郎は後日、「司馬さんはほとんど失敗をなさらない方だが、あれは失敗でした」と語ったそうである。
【参考文献】
大岡信『正岡子規-五つの入口』岩波書店 1995年9月
「司馬さんの控室 担当記者が見たあの日 大江さんと司馬さん」(『未公開講演録愛蔵版Ⅵ 司馬遼太郎が語る日本』朝日新聞社 1999年7月)

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現代の代表的な詩人の一人大岡信は、子規に関するセミナーで、「松山は文化的に水準の高いところです」、「松山という町が文化的に豊かな土壌をすでに持っていて、その土壌に生みつけられた種のひとつが、正岡子規であり、高浜虚子であり、河東碧梧桐であったのです。それが幸せだったと思います。近代から現代に至る俳句においても、松山という土地がどうしてあんなにすごい連中を生んだかということの秘密にもかかわりますけれども、皆さま方ご存じの現代の俳人で言えば、中村草田男、それから石田波郷ですね。そして、波郷を少年期に俳句に導き入れた五十崎古郷という俳人、みんな松山地方の出身です。彼らは正岡子規たちがここから出たということだけで、自分を支えるエネルギーを得ているのです」といっている。松山の豊かな文化的土壌が子規を生み、子規が出たことで、それにつづくものたちが力の源泉となるべきものを得た。なるほどこれは子規文化といっていいものなのかもしれない。
司馬遼太郎と大江健三郎がテレビ番組の収録で、松山を訪れたときの話。二人はホテルで朝食をともにしながら雑談をしていた。司馬は快活に話し、後ろのほうにいた別の二人の客も司馬の方をうれしそうに見ていた。話の中で司馬が、「愛媛は非常に文化的ですね。高知はあまり文化的ではないですね」と語ると、後ろのほうにいたその二人の客の表情が突然険しくなり、近づいてきて、「司馬先生、お久しぶりです。高知県庁の〇〇です。先生、高知県が文化的でないとはどういうことでしょうか」と詰問したという。大江健三郎は後日、「司馬さんはほとんど失敗をなさらない方だが、あれは失敗でした」と語ったそうである。
【参考文献】
大岡信『正岡子規-五つの入口』岩波書店 1995年9月
「司馬さんの控室 担当記者が見たあの日 大江さんと司馬さん」(『未公開講演録愛蔵版Ⅵ 司馬遼太郎が語る日本』朝日新聞社 1999年7月)
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「さよよ」
水の味
優れた味覚の持ち主であったあるイギリス人の食通も、水の味だけはわからなかった、という話を伊丹十三がしている。「かわいそうなものです。日本人ならだれだって知ってるだろう水の味がわからない」「日本人であるわれわれは水の味のわからぬ食通にだけはなるまいぞ」-伊丹はそう言っている。
江戸時代の儒者、貝原益軒はその著『養生訓』で、「水は清く甘きを好むべし。清からざると味あしきとは用ゆべからず。郷土の水の味によって、人の性(うまれつき)かはる理なれば、水は尤もゑらぶべし」と説いている。小泉武夫(発酵学・醸造学)によると、これは深い意味を有する訓文で、まさしく益軒が説いているように、良い水というのは甘く感じるものが多いのだそうである。飲む水によって、その人の性質までが変わる(郷土の水の味によって、人の性かはる)というのも、そのとおりであるかもしれない。
名水というのは、山の湧き水に似ているが、土臭さがなく、かといって、雨水のようにフニャフニャというものでもない、日本人はそれを「甘い」とか「丸い」とか表現してきた、と小泉武夫はいう。水の味が「甘い」「丸い」-伊丹の話に出たイギリス人の食通の発言は、「水にうまいまずいはないだろう」であった。
日本列島の水というのは鉄がほとんど含まれておらず、純水に近いということである。日本酒の場合、仕込み水(原料水)の中に0.02ppm以上の微量の鉄が含まれていると、もう酒にはならない。鉄がそれ以上あると、できた酒は錆びたように赤褐色になってしまい、市場性を失うのだそうである。鉄が0.02ppm以下という貴重な水があるのは、不思議なことに、世界の中でも日本列島だけであるという。
【典拠文献・参考文献】
貝原益軒著・石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫 1961年1月
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月
小泉武夫『人間はこんなものを食べてきた』日経ビジネス文庫 2004年2月
伊丹十三『女たちよ!』新潮文庫 2005年3月

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江戸時代の儒者、貝原益軒はその著『養生訓』で、「水は清く甘きを好むべし。清からざると味あしきとは用ゆべからず。郷土の水の味によって、人の性(うまれつき)かはる理なれば、水は尤もゑらぶべし」と説いている。小泉武夫(発酵学・醸造学)によると、これは深い意味を有する訓文で、まさしく益軒が説いているように、良い水というのは甘く感じるものが多いのだそうである。飲む水によって、その人の性質までが変わる(郷土の水の味によって、人の性かはる)というのも、そのとおりであるかもしれない。
名水というのは、山の湧き水に似ているが、土臭さがなく、かといって、雨水のようにフニャフニャというものでもない、日本人はそれを「甘い」とか「丸い」とか表現してきた、と小泉武夫はいう。水の味が「甘い」「丸い」-伊丹の話に出たイギリス人の食通の発言は、「水にうまいまずいはないだろう」であった。
日本列島の水というのは鉄がほとんど含まれておらず、純水に近いということである。日本酒の場合、仕込み水(原料水)の中に0.02ppm以上の微量の鉄が含まれていると、もう酒にはならない。鉄がそれ以上あると、できた酒は錆びたように赤褐色になってしまい、市場性を失うのだそうである。鉄が0.02ppm以下という貴重な水があるのは、不思議なことに、世界の中でも日本列島だけであるという。
【典拠文献・参考文献】
貝原益軒著・石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫 1961年1月
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月
小泉武夫『人間はこんなものを食べてきた』日経ビジネス文庫 2004年2月
伊丹十三『女たちよ!』新潮文庫 2005年3月
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