「のどかな春…」

正岡子規の随筆集『筆まかせ』によると、子規の高祖父(曾祖父の父)、正岡一甫は年始参りの際、必ず一枝の寒梅を袖にして、「のどかな春でございます」と挨拶していたという。同じく年始参りの挨拶、民俗学者、宮本常一の祖父の場合は、「よい春でごいす」であった。宮本の生まれ故郷である周防大島(山口県)では、古くは「おーとびでごいす」[注]が正月の挨拶の定型で、これに「もっておいでんされ」と言ってこたえるのが正式であったという。昔の正月の挨拶はおもしろい。どことなく可笑し味のある挨拶である。賀意を押しつけるような感じの全くないところも好ましく思われる。

[注]-「おーとび」は「御とび」の転であろうか。『日本国語大辞典』によると、山口方言の「とび」には「正月の供え物、または正月の飾りつけ。正月や祝儀などにつく重ね餅」の意があるという。

【参考文献】
『子規全集』第10巻 講談社 1975年5月
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫 1984年5月
宮本常一『家郷の訓』岩波文庫 1984年7月
『日本国語大辞典 第二版』第9巻「とび」の項 小学館 2001年9月

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ジャンル : 学問・文化・芸術

読書始めは「初音」巻

室町後期の貴族、三条西実隆は元日に『源氏物語』の「初音」巻を読むのが慣例であったという。「初音」巻は、造営の成った六条院(光源氏の邸宅)での正月の模様を描いたもの。この巻の冒頭部分(下記)は特にめでたい文章とされた。

年立ちかへる朝(あした)の空のけしき、名残(なごり)なく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根のうちだに、雪間(ゆきま)の草若やかに色づきはじめ、いつしかとけしきだつ霞に木(こ)の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。
(元日の朝、空は一片の雲もなくうららかに晴れわたり、家々の垣根の内には、雪の消えた間から若草がいきいきと色づきはじめ、はやばやと立ちそめる霞に木の芽も萌え出て、人々の気持ちも自然とのびのびしているように思われる。)


中世の源氏注釈書は、この文章がどうしてめでたいのかを次のように説明している。冒頭の「朝の空のけしき~」は「天」、「数ならぬ垣根のうち~」は「地」、「おのづから人の心も~」は「人」、すなわちこの一段は「天地人の三才」の調和を説き述べている、云々。「天地人の三才」が調和するのは、天下泰平の世が実現したことの証しである。源氏研究者の日向一雅は、「初音」巻冒頭の「天地人」が調和した元日の朝の風景は、太政大臣光源氏によって泰平の世が実現したことを示すものであったと指摘している。

【典拠文献・参考文献】
石田穣二・清水好子校注『源氏物語 四』新潮日本古典集成 1979年2月
日向一雅『源氏物語の世界』岩波新書 2004年3月
日向一雅『謎解き 源氏物語』ウェッジ 2008年9月

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子規、英語の試験での失敗談

英語を苦手としていた子規が、大学予備門の英語の試験を受けたとき、訳語の「法官」を「幇間」(たいこもち)と聞きまちがえたという有名な話は、子規の随筆『墨汁一滴』の中に出ている(下記)。

余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であったと思ふ。この時余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、殊に英語の力が足らないのであったが、場馴れのために試験受けようぢゃないかといふ同級生が沢山あったので固(もと)より落第のつもりで戯れに受けて見た。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあったが一番困ったのは果して英語であった。活版摺(ずり)の問題が配られたので恐る恐るそれを取って一見すると五問ほどある英文の中で自分に読めるのは殆どない。(中略)その時或字が分らぬので困って居ると隣の男はそれを「幇間」と教えてくれた、もっとも隣の男も英語不案内の方で二、三人隣の方から順々に伝へて来たのだ、しかしどう考へても幇間ではその文の意味がさっぱり分らぬのでこの訳は疑はしかったけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になって考へて見るとそれは「法官」であったのであらう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の滑稽であった。


こんなありさまであったから、子規は合格するとは思っていなかったが、結果は見事合格、子規に「ホーカン」と教えてくれた「隣の男」は不合格であった。上引につづく文章で子規は「隣の男」に対しては「気の毒でたまらなかった」と書いているが、このときの試験に対しては「屁の如しだと思ふた」と書いている。

【典拠文献】
正岡子規『墨汁一滴』岩波文庫(改版) 1984年3月

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秋山真之の正岡子規宛年賀状

子規記念博物館で現在開催中の特別展で、新発見の『なじみ集』他、秋山真之の子規宛年賀状(明治24年と33年のもの)なども展示されている。下に真之のその年賀状を転記しておくことにしよう。

東京本郷眞砂町十八番常盤舎内
正岡常規君

常盤舎内諸君へ
謹賀新禧
君士坦丁堡迄来りた
れトモ別ニ驚ク程の者なし
世界ハ廣クして餘程
狭く御坐候
廿四年正月元旦
S.Akiyama Constantinople
H.I.J.M.S.Hiyei


謹賀新年
明治三十三年一月 在米 秋山眞之
遠くとて五十歩百歩小世界
正岡丈鬼様


「君士坦丁堡」はコンスタンチノープル(今のイスタンブール)、『子規全集』では「君」を「黒」と翻読している。「H.I.J.M.S.」はHis Imperial Japanese Majesty’s Shipの略。「Hiyei」は軍艦比叡。「在米」を『子規全集』では「東京」と翻読している。「丈鬼」は常規(つねのり)の音読「じょうき」に漢字をあてた子規の別号、丈草・鬼貫から一字ずつをとる。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』別巻1(子規あての書簡) 講談社 1977年3月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺) 講談社 1978年3月

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「子規を殺したのは軍だ」-桜井忠温講演「正岡従軍記者」

明治28年(1895)4月、正岡子規は日清戦争の従軍記者として戦地に赴き、金州・旅順などに約1か月滞在、その帰国の船中で突然喀血し、神戸病院に入院、病状は一時重篤であった。従軍中の無理がわざわいしたのである。その無理も半ばは軍が強いたもので、「子規を殺したのは軍だ」という下に引示するような発言も出てくることになる。

以下に引用するのは、桜井忠温(1879-1965)が晩年におこなった「正岡従軍記者」と題する講演の要旨。桜井は『肉弾』などの戦争小説を書いたことで有名な元陸軍軍人である(松山出身)。

子規は、金州に行ったが、軍はだれも相手にしてくれぬ。将校は、記者に向かい「貴様は何しに来た、帰れ!」「ここは、お断りだ」(中略)報道ということに何の価値も認めぬどころか軍状をスパイされるぐらいに考えていた。だから、一椀の食も、一枚の毛布も与えなかった。「従軍記者には食事と毛布を与うべからず」と通達が出ていたのである。だから、民家の軒下などに寝、高粱や野のものを食べるというふうであった。それに、記者が通信を出そうと思っても、便があるのに持って行ってくれぬ。しかたがないので、記者は何里も歩いて野戦郵便局へ出しに行った。そこで今度は「あけてみろ!」とくるのである。ここに黒田甲子郎(こうしろう)という東京日日の従軍記者がいた。(中略)この男が子規に同情し、いたわり、「このままでは病気になる。ここで死んだら、犬ネコ同然野山に捨てられる」と極力帰国を勧めたのである。後年、新聞記者が集まって思い出話をした時、黒田は、宇垣一成陸相の前で、「子規を殺したのは軍だ」と大声叱咤したが、宇垣陸相は何もいわなかった。(中略)子規が三十六歳で倒れた原因は、黒田の言うとおり軍が作ったのである。(愛媛新聞 昭和41年12月6日「正岡子規」第4部「逸話その他5」)


この時の講演は「高齢の人とも思えぬほどの気魄に満ちたもので、戦争の過酷悲惨を描いた『肉弾』の著者の証言として、強く心をうつものがあった」(愛媛新聞同記事)という。なお、桜井が子規の没年齢を36歳としているのは数え年によったものである。子規は34歳と11か月で死去した。

【参考文献】
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(愛媛文化双書36 増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月

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