安倍能成

昨日のブログ記事で紹介した正宗寺の水野広徳の歌碑には、「後輩」として安倍能成(1883-1966)の名が記されていた。安倍能成は松山出身の哲学者。現在の哲学界の最長老の一人、今道友信(1922生)は学生時代に聞いた安倍能成の次のような言葉が今も心の襞に残っているという(今道友信『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』)。

哲学を勉強するのなら、次の二つのことをよく心に残しておきなさい。思想は国家で終わるものではない。また、偉大な哲学者は必ず宗教的な憧れを持ち続けている。この二つを君は忘れないように。


「思想は国家で~」はマルクス主義やナショナリズムを批判したもの、「偉大な哲学者は必ず~」は宗教哲学の構築を期待するものであろうか。安倍の哲学観の根底に何があるかを窺わせるような言葉である。

安倍能成は小唐人町、現在の大街道の生まれであるが、かれの伯父(おそらく母方)に当たる人の家は往時、三津浜にあった。安倍は6歳の頃、その伯父の家に行ったことがあり、そのときの思い出を「港の家」と題するエッセーの中で語っている。下に同エッセーの文章を少しばかり引用しておくことにしよう。

伯父は朝市を見せてやらうといって自分を連れ出した。家を出ると直ぐ向うの方に黒い門があった。それは学校であった。朝市のある処は浜の一寸した広場であったかと思ふ。虚無僧のやうに深い編笠を被った男が五六人、高い踏台の如き物の上へあがって、帳面を拡げて頻りにそれを読み上げて居た。そのぐるりには沢山の魚が所狭いまでに並べられて、その間を多くの魚売があちこちと世話しさうに往来しながら、編笠の方を向いて凄じく怒号して居るやうであった。投げ棄てられたやうにそこいらにある魚は皆生きてぴんぴんとはねて居た。砂にまみれた中から怒ったやうに眼を尖して居る妙な形の魚もあった。一人の魚売女が、四尺もあったらうと思はれる大きなこちを、うんうんと息はづみながらかついで来て、ドッコイショと懸声をして砂の上に肩をはづすと、その魚はドシンとそこへ落ちた。
伯父は自分をそこから埠頭場の方へつれて行ってくれた。埠頭場の出鼻から少し向うの方にある大きな船を指して、「あれが蒸気船ぢゃ」と伯父は言った。黒い船の舳の方には、青い色で竜か何かが描かれて居た。船の手摺の所から大きな声でこちらを呼んでる人が、何だか自分等と別な国の人間か何かのやうに思へた。



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【参考文献】
『安倍能成選集』第1巻 日本図書センター 1997年9月
今道友信『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』中央公論新社 2000年2月

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九霞楼、帯江楼

江戸後期、三津の洲先町(洲崎町 のちに須先町と書く)に九霞楼、帯江楼という豪商松田家の瀟洒な別邸があった。平凡社刊『愛媛県の地名』は「九霞楼跡・帯江楼跡」の項を立てて次のような解説を施している。

南洲先町で酒造業を営んだ豪商松田家(唐津屋)の別邸。同家の人で、文化-文政期(一八〇四-三〇)に活躍した松田浩斎(一七八五-一八四二)は、名を信順、字を渙卿といい、町の大年寄を勤めた。学者であり文雅の士で、九霞楼および帯江楼を造り、頼山陽・同杏坪・田能村竹田・同直入らを招致した。また栗田樗堂の教えを受け、俳人としても知られる。「樗堂俳諧集」「続樗堂俳諧集」「樗堂俳句集」「筆花集」などをつくった。


この解説には頼山陽らを「招致した」とあるが、頼山陽の来訪の事実はない。来訪はしていないが、書簡を通しての松田家との交際はあり、山陽は「九霞楼記」と題する散文を残している。田能村竹田は豊後(竹田の郷里)・大坂間の海路往復の際、何度か三津浜に立ち寄っており、九霞楼を訪問していた。それだけではなく、竹田には「三津浜真景図」という絵画作品があり、九霞楼と思われる建物をこの絵に描いている(「三津浜真景図」は出光美術館蔵)。九霞楼はいうならば各地の文人を招いて風雅を楽しむ一種の文学サロンであった(帯江楼のほうは仕事場か)。松田家の当主、浩斎(信順・渙卿)は『九霞楼詩文集』[注]と題する四巻の漢詩文集を編纂しており、この書には215人もの文人雅客が詩文を寄せている。この九霞楼があったのは三津1丁目の鯛めし専門店の向かい側。帯江楼はさらにその東側にあった。九霞楼、帯江楼の跡を偲ばせるものはなにも残されていない。

[注]-『愛媛県史 資料編 学問・宗教』に『九霞楼詩文集』の一部が翻刻されている。

【参考文献】
美山靖「九霞楼詩文集」(愛文14号 1978年7月)
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
高市俊次「伊予俳人拾遺~九霞楼主人松田渙卿とその周辺について~」(教育研究集録22集 1990年3月)
森元四郎『椿守り-森元四郎著作集』 2003年12月
宗像晋作「館蔵 田能村竹田筆「三津浜真景図」について-その制作背景をめぐって」(出光美術館研究紀要10号 2004年12月)

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信長のアフリカ人家来

織田信長にアフリカ人の家来がいたことは、高校日本史の参考書にも出ているくらいだから、よく知られているのではないかと思う。山川出版社刊の参考書『詳説 日本史研究』ではこのアフリカ人のことを次のように記述している。

イエズス会宣教師が、ポルトガル人によってアフリカから連れてこられた黒人奴隷を初めて信長に会わせたとき、信長はからだに墨を塗っているものと思い込み、それが肌の色であると説明されてもなかなか信じようとしなかったという。(中略)その黒人はぎこちないながらも日本語を話せたことから、信長に気に入られ、宣教師のはからいで信長に仕えることになった。黒人は本能寺の変のときも刀を手にして明智方の兵とよく戦ったが、ついに捕えられてしまった。明智光秀の判断で命を助けられ、宣教師のもとに返されたらしいが、その後の消息については不明である。


大航海時代、ポルトガル商人たちは奴隷の売買を盛んにおこなっていた。信長に仕えたこのアフリカ人もそうした時代の犠牲者の一人であったといえるであろう。柴田宵曲(1897-1966)のエッセーによると、このアフリカ人のことは文学者たちの興味を刺激したらしく、小山内薫の戯曲『織田信長』や、芥川竜之介のある未完小説、北原白秋の童謡「織田信長」などに取り入れられているという。

【参考文献】
佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖『詳説 日本史研究』山川出版社 2008年8月
柴田宵曲(小出昌洋編)『漱石覚え書』中公文庫 2009年9月

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天正遣欧使節が目撃したもの

天正10年(1582)、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら四人の少年使節がローマ教皇のもとに派遣されたが(天正遣欧使節)、かれらは経由する各地の港町で多数の日本人奴隷を目撃したと伝えている。こうした日本人奴隷の多くは国内戦争で生じた捕虜や貧困のため売られた子どもたちの国外への転売であったらしく、すでに1550年頃より多数の日本人がポルトガル商人によって海外に売られていた。16世紀後半には、マカオ、マラッカ、ゴアといったポルトガル領植民地だけでなく、ヨーロッパや南米にも日本人の奴隷がいたということである。

【参考文献】
水本邦彦『日本の歴史10 徳川の国家デザイン』小学館 2008年9月

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四国遍路を「呵責放逐」-愛媛県の布達

明治6年(1873)4月、当時の愛媛県は県内の正副区戸長宛てに四国遍路の巡礼者を見つけ次第、「速カニ呵責放逐シテ片時モ管内ニ置クベカラズ」という布達を出している。四国遍路は「野蛮之弊風」で「醜態不可云(いうべからざる)モノ」であるというのがその理由であった。同年8月、県はまた盆踊りを禁止する旨の布達を出している。盆踊りは「鄙猥ヲ極メ一般風儀ニ関係」するという理由からであった。当時の為政者たちがおこなった開化政策というものはまことに強圧的で乱暴極まりない。徳川の旧政権は民衆に対してここまで強権を発動するというようなことはなかったのではなかろうか。文明開化を唱えた明治新政府よりも旧徳川政権のほうがはるかに文明的だったような気がする。参考までに下にその愛媛県の布達を転記しておくことにしよう。

四月 正副区戸長エ
遍路物貰等之儀ハ[一字判読不能]テ不相成段(あいならざるだん)兼テ御布達ニモ相成居候処(あいなりおりそうろうところ)此節ニ至テモ猶(なお)旧習ヲ存シ四国順拝抔(など)ト唱ヘ人之内ニ立テ食ヲ乞ノ類全ク野蛮之弊風ニテ其醜態不可云(いうべからざる)モノ也 又食ヲ与ルモノハ仏説之所謂後生之為抔ト心得候ハ必竟姑息ノ私情ニシテ却テ人民保護ノ障碍タルコト無論ニ候条 区々ノ長タル者此理ヲ篤ト了解シ遍ク管内ノ人民ニ説諭シ向後屹度(きっと)心得違無之様(これなきよう)厚ク注意致シ右体ノ者ハ見当リ次第速カニ呵責放逐シテ片時モ管内ニ置クベカラズ モシ食ヲ与ル者ハ送リ付ノ入用等出費申付且品ニヨリ屹度可及沙汰(さたにおよぶべく)候条此旨区々無洩可触示(もれなくふれしめすべく)候 尤(もっとも)右等ノ儀ハ区長戸長ノ責ニ候条説諭於不行届ハ其役前ノ落度タルベキモノ也

第六拾五号 八月廿九日
従来盆会中手踊リニハカノ類興行致来候趣ノ処 右ハ男女混雑尤鄙猥ヲ極メ一般風儀ニ関係致候ニ付自今一切不相成(あいならず)候事


上引と同種の布達は当時の他府県も出している。牧原憲夫著『日本の歴史13 文明国をめざして』によって例示しておくことにしよう。

「初午、盆踊り、灯籠祭りなどとなえ、勝手に数日も休業するのは心得違いである」(愛知県)、「花火は一瞬の間に多数の金銭を費やし、人の死傷、家の損傷も引き起こすので、花火興行を禁止する」(千葉県)、「盂蘭盆会と称して、真夏に腐敗しやすい飲食を人に施したり、施餓鬼や念仏踊りをするのは時間や天物の浪費であり、文明に進歩すべき児童を惑わすので、一切禁止する」(京都府)、「裸踊りは文明の今日、慙愧に堪えないので厳禁する」(福岡県)



【典拠文献・参考文献】
愛媛県編『明治六年 愛媛県布達全書』 1879年9月
牧原憲夫『全集日本の歴史13 文明国をめざして』小学館 2008年12月

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