水野広徳

好評を得ているという加藤陽子(日本近代史)の新著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に、水野広徳(みずのひろのり 1875-1945)についての言及がある。水野広徳は三津浜出身の海軍大佐で、軍事評論家。軍人でありながら平和思想を説き、日米非戦を主張した。加藤陽子のその新著では、水野について「国家の安全とはなにかというところまで深く考えた人」と述べ、その主張を

日本はそもそも戦争ができない国である。日本は国家の重要物資の八割を外国に依存している国なのだから、国家としての生命は通商関係の維持にある。通商の維持などは、日本が国際的非理不法を行わなければ守られるものである。現代の戦争は必ず持久戦、経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない生糸である点で、日本は致命的な弱点を負っている。よって日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない。ということは、日本は戦争する資格がない。水野広徳「無産階級と国防問題」(1929年)の要旨


と簡潔に紹介して、高く評価している。水野広徳については、猪瀬直樹の著『黒船の世紀』でも紹介され、2008年2月放送のNHKの番組《その時歴史は動いた》〈軍服を脱いだジャーナリスト 水野広徳の残したメッセージ〉でも紹介されたことがあった。以前にはあまり知られることのなかった水野広徳の名も、このところ徐々にではあるが一般に知られてきつつあるようである。

【参考文献】
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 2009年7月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

『坂の上の雲』執筆の動機

高浜虚子が子規との交流を描いた『子規居士と余』(大正4年刊)-司馬遼太郎はこの書の冒頭の文章によって触発された何かが『坂の上の雲』執筆の動機であったと述べている。

私はこの虚子の文章(引用者注-『子規居士と余』冒頭の文章)を兵隊にとられる直前に読み、本は空襲で焼けたが、戦後、ふたたび手に入れて読んだ。『坂の上の雲』を書いた唯一の動機はこの文章による何事かであったといっていい。一度ひろがってしまった自分のイメージは、年月とともに動いたり、濃くなったりして、結局、小説を書くことで固定しなければ息までが苦しくなる感じでさえあった。 司馬遼太郎『街道をゆく14 南伊予・西土佐の道』


『子規居士と余』の冒頭の文章によってひろがったある種のイメージ。『坂の上の雲』はそれを小説化したものであるというのが司馬遼太郎の自己解説である。司馬に『坂の上の雲』を書かしめることになったその虚子の文章とはいかなるものか。少し長くなるが、それを引いておくことにしよう。

松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処(そこ)へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣(や)っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。余らも裾を短くし腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルであることがまず人目を欹(そばだ)たしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊に脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯(へこおび)を緩く巻帯にし、この暑い夏であるにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板(まないた)のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣(ひとえ)の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。 高浜虚子『子規居士と余』


この文章のどういうところが『坂の上の雲』執筆の動機となったのかは正直わからない。当時の松山の駘蕩とした気分、どこかおかしみのある青年子規のイメージ、この文章にあらわされているこうしたイメージがどういうわけで『坂の上の雲』となって結実するのか、作者ならぬ身のわかりかねるところである。子規のもつ飄々とした明るさに司馬を惹きつける何かがあったのであろうか。

【典拠文献】
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月
司馬遼太郎『街道をゆく14 南伊予・西土佐の道』(ワイド版)朝日新聞社 2005年5月



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秋山真之

元海軍軍令部の軍人らが先の戦争を反省するためにおこなったという「海軍反省会」。昭和55年(1980)から11年間、130回以上にわたって同会は開かれたという。同会第10回(昭和56年1月)までの発言記録は本年8月、戸高一成編『証言録 海軍反省会』として出版されたが[注]、その中に「秋山さんがもし無事にしておられたら、海軍の空気は非常に違ったものになっただろう」という趣旨の発言(野元為輝・元海軍少将)があった。この「秋山さん」が秋山真之(1868-1918 松山出身の海軍中将)を指していったものであることはいうまでもない。昭和史研究家の半藤一利によると、「秋山戦略の最大の功績をなすものは、屈敵主義を信条とする考え方」で、「西洋の滅敵主義よりも東洋の屈敵主義に帰っていったあたりに、秋山参謀の真骨頂があった」という。秋山真之のこの考え方は、「軍備とは戦うためではなく、戦争抑制力としてその価値がある、という海軍の健全な考え方」であったが、「のちの昭和の海軍はこうした海軍の良識を踏み破って、夜郎自大的な存在と化していく」と半藤は指摘する。太平洋戦争前から敗戦まで、海軍大学校の図上演習室の入口には、秋山真之の胸像が置かれていたという。真之の胸像は昭和の海軍をどのような思いで見ていたのであろうか。

注-「海軍反省会」の録音テープの一部は本年8月9日~11日放送のNHKスペシャル《日本海軍 400時間の証言》でも紹介された。

【参考文献】
半藤一利『日本海軍の興亡』PHP文庫 1999年1月
戸高一成編『証言録 海軍反省会』PHP研究所 2009年8月


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子規・虚子・碧梧桐-溌々園での会食

高浜虚子の『子規居士と余』(岩波文庫『回想 子規・漱石』所収)に、子規・虚子・碧梧桐の3人が三津の料亭、溌々園(三津の生簀)で会食したことを記す次のような文章がある。

三津の生簀(いけす)で居士(引用者注-子規を指していう)と碧梧桐君と三人で飯を食うた。その時居士は鉢の水に浮かせてあった興居島(ごごしま)の桃のむいたのを摘み出しては食い食いした。その帰りであった。空には月があった。満月では無くて欠けた月であった。縄手の松が黒かった。もうその頃汽車はあったが三人はわざと一里半の夜道を歩いて松山に帰った。それは、
「歩いて帰ろうや。」という居士の動議によったものであった。その帰りに連句を作った。余と碧梧桐君とは連句というものがどんなものかそれさえ知らなかったのを居士は一々教えながら作るのであった。何でも松山に帰り着くまでに表六句が出来ぬかであった。


虚子の『子規居士と余』はこの3人の会食がおこなわれた年月日を記していないが、碧梧桐の父、河東静溪(本名坤)の日記、明治25年7月22日条に「秉兒与正岡高浜二生 游于三津溌々園 正岡饋之 八時帰」とあるのがこの時の会食であったと判断される。「静溪日記」当該条は、「秉兒、正岡・高浜の二生と三津の溌々園に游ぶ。正岡これを饋す。八時帰る」と訓読するのであろう。「秉兒」は碧梧桐(本名秉五郎)のこと。「饋」は「おくる。すすめる」であるが、ここでは「おごる(正岡子規のおごり)」の意で用いているのであろう。明治25年(1892)、子規数え年26歳、この年の7月22日夕刻が『子規居士と余』に記された3人の会食の日時であった。なお、同書上引の文章に「縄手」とあるのは三津浜から三津口(現在の本町6丁目付近)までの道の通称。江戸時代、松山藩主が参勤交代に利用した道で、道の両側には松の木が植えられていた。「縄手の松が黒かった」-前記年月日の夕刻、子規・虚子・碧梧桐の3人は連句を作りながらこの道をたどり松山に帰ったのである。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第9巻 講談社 1977年9月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月
清水正史『伊予の道』愛媛文化双書刊行会 2004年11月

[後記-明治25年7月22日の会食は虚子の兄の招待によるものでした。当ブログ2010年1月28日記事参照。]


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小早川隆景の湊山城

信長、秀吉の時代に日本に滞在したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイス(1532-1597)の『日本史』に次のような記述がある。

副管区長コエリュ師は、そこから伊予の国に向かって旅を続けた。同国は豊後の正面にある大国である。過ぐる年、関白殿は、それら四ヵ国が一島にあるところから、伊予国を他の三ヵ国とともに征服し、伊予を山口の国主である毛利(輝元)の叔父であり、その国の主要な統治者である小早川(隆景)に与えた。(中略)副管区長が伊予国に着いた時、その国では小早川が大勢の人を使役して非常に高く美しい一城を構築中であった。副管区長一行の船が海上のある距離まで接近し、上の城の工事場からそれが見えると、小早川は関白の使者小寺官兵衛を通じて、コエリュ師が自分を訪ねて来るはずであるとの報せをすでに受けていたので、ただちに一隻の船を仕立てて秘書を海上に遣わし、司祭に歓迎の意を表すとともに、城からは遠かったが非常に立派な屋敷を宿舎として提供すると伝えさせた。さらに小早川は、もし司祭が数日にわたって滞在を希望するのならば、そこから一里のところに道後という伊予国のもっとも主要な市(まち)があるので、そこで宿泊の用意をさせるから、ゆっくり休養されるがよいと伝えさせた。


伊予の新領主、小早川隆景(1533-1597)が「構築中であった」「非常に高く美しい一城」。海上接近してくるコエリュ一行の船をその城から視認しているので、海のほとりの丘陵上に「構築中」のそれはある。フロイスは明記していないが、この城は三津浜の北、海に面した丘陵上に位置する湊山城(港山城)のことであるらしい(山内譲『瀬戸内の海賊』181頁)。湊山城はもと河野氏の城であったが、同氏の伊予退去後、秀吉の命によって領主となった小早川隆景がここに新たな城を築き、伊予支配の拠点にしようとしていた。だが、上引の文章で記述されているコエリュ一行の伊予入国(天正14年=1586)があった翌年、隆景は突然、筑前に移封となり、湊山城は未完成のまま放棄され、廃城となった。城があった西港山(標高52m)は竹藪、雑木が生い茂っていて、今は登ることもできない。小早川隆景「構築中」の城の遺構は確認されているのであろうか。

【典拠文献・参考文献】
松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史11 大村純忠・有馬晴信篇Ⅲ』中公文庫 2000年11月
山内譲『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』講談社選書メチエ 2005年2月

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