祭りと酒

日本の祭りには酒がつきものである。神前に酒を供えて神をもてなし、人は酒を飲んで神と交歓する。神と人とが酒によって和合一体となることは日本の祭りの本旨でもある。祭りに飲酒が伴うのは日本だけではない。各地の民族宗教でも同様に祭祀儀礼の一環として飲酒がおこなわれていた。古代インドのバラモン教においては、サウトラーマニー祭とヴァージャペーヤ祭の場合には穀酒を飲むし、ソーマ祭においてはソーマ(神酒)そのものを讃えた(もっとも近年ではソーマは酒ではなく、ベニテングタケというキノコであるという説が有力らしいが…)。中国では、酒は水穀の精、熟穀の液として古くから神事に用いられていた。古代王朝の殷では酒によって神人一体の至境を具現することが政治の要諦とされていたという。ユダヤ教でも古くは儀式の際に飲酒がおこなわれていた。祭祀と酒-民族宗教の段階においては、この両者は密接に結びついていたのである。

【参考文献】
『国史大辞典』第7巻「神饌」(鈴木義一)の項 吉川弘文館 1986年10月
白川静『字統 普及版』平凡社 1994年3月
『中村元選集[決定版]別巻2 普遍思想 世界思想史Ⅱ』春秋社 1999年2月
前田專學『インド哲学へのいざない ヴェーダとウパニシャッド』NHKライブラリー 2000年12月

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

三津厳島神社の御霊遷し

松山地方の秋祭りの主役は神輿である。神輿は神の乗りもの、神輿には神の霊をあらかじめ遷さなければならないが(「御霊遷し」の儀式)、三津厳島神社では以下に述べるように一風変わった方式で神霊が神輿に遷される。その儀式がおこなわれるのは深夜、神輿は拝殿に安置されている。鉢巻、袢纏姿の神輿守り(かき夫)たち、およそ二十人余りが登場し、神輿から中殿あたりにかけて左右交互に次々とうつぶせに寝そべってゆく。そして明かりが消され、御霊代(みたましろ)を携えた宮司が両脇を介添え役に支えられながら現れる。宮司は暗闇のなか神輿守りたちの背中を踏み歩いて、神輿にたどり着き御霊代を神輿に遷し入れる。御霊遷しが終ると、神輿守りたちは立ち上がり、次の神輿の神輿守りたちと入れ替わって、同様の儀式が繰り返される。神輿守りたちがうつぶせに寝そべるのは、伝承によると、海の波を意味するのだそうである。厳島神社の祭神が海の神であるのに因み、神が波の穂を伝って示現するありさまをあらわしているのであろうか。このユニークな儀式がいつごろ始まったのか、起源等に関する詳細は伝えられていない。

【参考文献】
松山市教育委員会編『松山の民俗』 2000年3月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

喧嘩神輿(鉢合せ)

松山地方の秋祭りといえば、神輿をぶつけ合う喧嘩神輿(鉢合せ)。全国的にも珍しいこの勇壮な喧嘩神輿は、当地秋祭りの最大の見せ場となっている。松山地方の秋祭りではなぜ神輿をぶつけ合うのか、その由来等について確かな所伝はないが、以下に述べるような次第で発生したのではないかと推測されている。愛媛県の東予地方の秋祭りにはだんじりや太鼓台があり、南予地方には四つ太鼓と牛鬼がある。この両地方には祭りを賑やかにするためのこうした出し物があるが、松山地方にはこの類のものがない。そこで松山の秋祭りでは神輿をいかに担(か)くか、その担き方に工夫が凝らされた。各地区の氏子たちは神輿の担き方に工夫を凝らし、それが地区と地区との競い合いとなって極端にまで進展した結果、発生したのが鉢合わせという形態。神輿をぶつけ合うのは荒々しい行為に見えるが、こうした行為が許されるのは、神霊のよりしろを振り動かせば、活力がつき霊威が高まるという日本古来の「たまふり」の信仰が人々の心底に深く根づいていたからでもあった。

【参考文献】
松山市教育委員会編『松山の民俗』 2000年3月
内田九州男・武智利博・寺内浩編『愛媛の不思議事典』新人物往来社 2009年3月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

「おいしさ」の成立

小泉武夫(発酵学・醸造学)著『食と日本人の知恵』によると、「おいしさ」は次のような組み合わせで成り立っているのだそうである。基本となる味は甘味、酸味、鹹味、苦味、うま味の五つで、これに辛味と渋味を加えて「味覚」が構成される。この「味覚」に、こく味、広がり、厚みなど、口の中での特有の感覚と香り(嗅覚)が加わると「風味」となる。この「風味」に、食べものの硬軟や粘度、温度といった物理的感覚(触覚)や、色、光沢、形状といった視覚、咀嚼する音、すする音などの聴覚が混合して「食味」が形成される。この「食味」に、「外部環境」(雰囲気、湿度、気温、気圧など)、「食環境」(食習慣、食文化など)、「生体内部環境」(健康、歯、心理などの状態)の三つの環境が加わることによって、最終的に「おいしさ」が決まるのだという。「おいしさ」は単なる舌の感覚ではない。複雑な要素がからみ合い、調和することによって成立する実に繊細微妙な感覚である。十月になっていよいよ本格的な秋、春夏秋冬それぞれの季節の感覚も「おいしさ」を成立させる重要な「食環境」のひとつである。

【参考文献】
小泉武夫『食と日本人の知恵』岩波現代文庫 2002年1月

テーマ : 雑記
ジャンル : 学問・文化・芸術

刈屋畑の戦い

刈屋畑の戦い(刈屋口の戦い)は一名「伊予の関ヶ原」、東軍方の加藤勢と西軍方の毛利勢とが今の古三津を主戦場に戦った大規模な合戦である。合戦の経緯は大略次のようなものである。

天下分け目の戦いと呼ばれる関ヶ原の合戦が起こったのは慶長5年(1600)9月15日、伊予正木(のちに松前と書く)の城主、加藤嘉明は東軍に加わり決戦の地にあった。西軍の盟主、毛利輝元は嘉明の不在に乗じて、正木城を接収しようとし、村上武吉・元吉父子(能島村上水軍)、宍戸景好(輝元家臣)、曽根高房らに加藤領への発向を命じた。毛利勢は松山沖の興居島を経て三津に上陸。村上武吉・元吉、宍戸景好は9月15日付で連署して、正木の豪商、武井宗意らに充てて書状を発し、「加藤方についた場合は、妻子以下みな討ち果たすであろう」と述べて、自軍への協力を求めている。9月16日、毛利勢は曽根高房を使者として派遣、豊臣秀頼の朱印状を示して正木城の明け渡しを要求した。嘉明の留守を預かる加藤忠明(嘉明弟)、佃十成(つくだかずなり・嘉明家臣)らは明日返答する旨を毛利勢に伝えて、これを油断させ、深夜に急襲した。三津の刈屋畑で両軍の激戦がくり広げられる中、村上元吉、曽根高房らは討死。戦闘はさらに久米郡如来寺、浮穴郡荏原城、和気郡山越付近でも続いたが、毛利勢は連敗し、風早浦から船に乗って安芸へ引き上げた。

現在の古三津1、2丁目には、「村上大明神」(村上元吉)など、刈屋畑の戦いの戦死者を祀る小祠が点在している。これらの小祠は古三津一円が戦場であったことを今に伝えている。

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近世上』1986年1月
松山市史編纂委員会『松山市史』第2巻 1993年4月
山内譲『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』講談社選書メチエ 2005年2月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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