「東京松山比較表」

明治22年(1889)12月、正岡子規(数え年23歳)は東京上野無極庵で開かれた「松山会」の例会で、「東京松山比較表」(『筆まかせ』第一編「松山会」)なるものを発表し、会を大いに盛り上げた。同表は東京と松山のさまざまな事物、人物を70項目近くにわたって対比したもので、その作成にあたっては、「竹村、伊藤、伊東温、新海、河東、諸君の与(あずか)りて力をかされたる者」であるという。若き日の子規が「松山会」でのうけを狙って戯作的なこの表を友人たちと懸命に作っていたのかと思うと、なんともほほえましい。一部省略したところもあるが、下にその「東京松山比較表」なるものを引用してみよう。

東京 松山
宮城 松山城
内閣 県庁
丸ノ内 堀ノ内
日比谷練兵場 堀ノ内練兵場
青山練兵場 一万練兵場
東京府庁 和気久米郡役所
警視庁 松山警察署
帝国大学 松山師範学校
第一高等中学校 尋常中学校
横浜 三津
新橋横浜間鉄道 松山三津間鉄道
品川停車場 三津口停車場
隅田川 石手川
吾妻橋 立花橋
三叉 出合ノ渡
番町 一番町二番町三番町
日本橋通 長町
伝馬町通 本町
人形町通 大街道
愛宕山 東雲台
御殿山 西山
飛鳥山 道後公園
増上寺 大林寺
金春烏森 千舟町
芳原 道後松ケ枝
洲崎 三津新地
神田川 中ノ川
九段坂 毘沙門坂
湯島天神 立花天神
山王 道後八幡
神田明神 阿沼美神社
氷川神社 雄栗神社
池上本門寺 西山お石塔
千住口 新立口
千住大橋 新立橋
上野東照宮 東雲神社
江戸川製紙場 新場所
日本橋魚河岸 日切前魚市
本願寺 勧善社
日本橋 札ノ辻
新宿 藤原
博物館 物産陳列所
鹿鳴館 公会堂
日本銀行 五十二国立銀行
三井銀行 越智組
東京ホテル 木戸屋
八百松 中よし
八百膳 花廼舎
無極庵 うどん亀屋
大丸 米周
越後屋 米藤
白木屋 しほや
新富座 三番町定小屋
歌舞伎座 新栄座
白梅亭 大街道改良座
風月堂 三番町豊国堂
いろは 村井
練馬大根 斎院(原)大根
言問団子 橋本餅
東京日日新聞 海南新聞
東京新報 愛比売新聞
中村正直先生 河東坤先生
三島中洲 近藤南洋
福沢諭吉 大野侗吉


若干、注を付しておくと、「三津口停車場」は旧・古町駅(現在の市内電車萱町6丁目電停付近にあった)。
「芳原」(吉原)、「洲崎」は東京の代表的な遊郭街。当時、松山にあった遊郭は「道後松ケ枝」と「三津新地」の2か所のみであった。「洲崎」が海沿いであることから、子規はこれを同じく海沿いの「三津新地」に比定したのであろう。「松山三津比較表」が発表された明治22年の時点では、三津の東西新地(住吉1~2丁目)に置屋や料理屋が並んでいたようであるが、明治26年に遊郭は稲荷新地(旧船場西南部)に移転し、昭和初期まで活況を呈していた。
「木戸屋」は三番町のきどや旅館(城戸屋旅館)。漱石の『坊っちゃん』に描かれている山城屋とはこのきどや旅館のことである。
「米周」「米藤」「しほや」は湊町4丁目の呉服店。「米周」は現在の米周ビルがあるところ、「米藤」はその東隣りにあった。「しほや」は現在の塩屋呉服店である。
「河東坤先生」は碧梧桐の父、河東静渓。詩文に巧みな漢学者で、その河東塾には多くの子弟が集まった。

子規の『筆まかせ』には、この「東京松山比較表」の後に次のようなコメントが付されている。

右読み終りし時、南塘先生曰く、此外に尾上菊五郎と土居菊次郎ありと。伊佐庭氏曰く、右の比較表中、総て松山の方が劣るものなれども、独り山王と湯月八幡との比に至ては湯月八幡の方、勝ること万々なりと。又ある人の曰く、松山にありて東京になき者二あり。道後の湯と緋の蕪となりと。かくて笑ひ興じ、終には芸まわしなど始まりて松山会あってより以来の盛会と見受けられたり。


「比較表」の発表によって「松山会」が盛会となったと記す子規の口吻はどこか得意げである。

【典拠文献・参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
『子規全集』第10巻 講談社 1975年5月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月

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子規の溌々園訪問

当ブログ3月22日記事で、正岡子規の溌々園(三津の料亭)訪問の回数を『子規全集』第22巻「年譜」にもとづいて9回と記載したが、後日、閲読した森元四郎論稿「子規と三津」によると、その回数は13回または14回以上となるということである。訂正の意味も含めて同論稿の記述するところを下に示しておこう。

①明治20年8月以前 加藤拓川につれられ2、3回
②明治22年9月7日 (豊島昌義病気欠席)
③明治22年9月9日 中秋の名月
④明治23年1月5日 新年会
⑤明治23年1月23日 船待ち、塩湯
⑥明治23年7月24日 水泳帰り
⑦明治23年7月某日 紅葉会(第6回)
⑧明治24年8月23日 千舟学舎同窓会
⑨明治25年7月19日 松山競吟句会(第2回)
⑩明治25年7月22日 会食
⑪明治25年8月5日 松山競吟句会(第5回)
⑫明治25年8月16日 松山競吟句会(第6回)
⑬明治22年7月以降 妹律同伴


上記に加えて、明治22年9月24日の「三津に遊ぶ」も溌々園訪問と推定されるから、総計14回以上という数字が導き出される。なお、同論稿によると、三津の内港が改修されたため、溌々園の跡地は現在、海の底になっているという。住吉2丁目11番地の西南側の海底がその跡地であるらしい。

(①の時点では「溌々園」の名称はない。この名称での営業は明治22年5月19日以降)

【参考文献】
『子規全集』第22巻 講談社 1978年10月
森元四郎「子規と三津」 『子規会誌』10号 1981年7月

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曲亭馬琴の京旅行

『南総里見八犬伝』の作者として有名な曲亭馬琴(1767-1848)。江戸に生まれ育ったこの戯作者は、享和3年(1803)の夏から秋にかけて上方を歴訪した。馬琴の著『羇旅漫録』はこの上方旅行の覚書であるが、同書の中でかれは、「京にて味よきもの。麩、湯皮(湯葉)、芋、水菜、うどんのみ。その余は江戸人の口にあはず」と述べている。京料理は江戸ッ子、馬琴の口に合わなかったらしい。その馬琴が京都で見て驚いたものは、東西の本願寺であった。「見ておどろかねぬるものは、東西の門跡なり。奇麗荘観、言語同断、誠に美尽して世界の金銀もこゝにあつまるかとうたがはる」。豪壮な両本願寺には驚いたものの馬琴の趣味には合わなかった。かれは上引の文につづけて、「しかれども黄檗の雅にしてさびたるにはおとれり」と付言している。「黄檗」は宇治の黄檗山萬福寺。馬琴はこの禅寺の中国風のたたずまいが気に入ったようである。

「金閣拝見の者、一人より十人までは銀二匁なり。これを寺僧に投ずれば、則ち庭の門をひらく。東山銀閣寺もまたかくのごとし」。上記書のこの記述によると、金閣、銀閣は当時からすでに拝観料を徴収していたようである。拝観料は10人までの人数なら銀2匁。この額は現在の貨幣価値に換算すると、2000円くらいになるであろうか。金閣についての馬琴の感想は、「鹿苑寺の金閣は甚だ古雅なり。義満の像生けるが如く威あり。よき石あまたあり。滝はわろし」というものであった。

「京によきもの三ツ。女子、加茂川の水、寺社。あしきもの三ツ。人気(人々の気質)の吝嗇(りんしょく)、料理、舟便」。馬琴はまた京に「たしなきもの」(欠乏しているもの)として「魚類」「よきせんじ茶」「よきたばこ」「実ある妓女」などを挙げている。馬琴の京都に対する見方は総じて辛辣であった。

【典拠文献】
日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成』第1期 第1巻 吉川弘文館 1975年3月

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「あぜこし」「すくはり」…

「畔越(あぜこし・あせこし)」「足張(すくはり)」「長非子(ながひこ)」「古僧子(こほうしこ)」「酒流女(するめ)」……上記はいずれも古代の木簡に記されていた稲の品種名。平川南『日本の原像』によると、8~10世紀の遺跡から出土した種子札(たねふだ)と呼ばれる木簡に上記のような稲の品種名が記されているということである。稲にはすでに古代から固有の品種名が付けられていた。同書には古代の稲の品種名として「畔越」以下、24種類の名称が示されている。

伊予国宇和郡の戦国武将、土居清良の一代を記した『清良記』は、その巻7「親民鑑月集」(1702~31年頃成立)が当地の農事を記録していて、日本最古の農書ともいわれているが、同書には90種類以上もの稲の品種名が記載されている。そのなかには「畔越」「栖張(=足張)」といった古代以来の品種名もあり、それらが数百年から千年近くにわたって栽培されてきたものであることを示している。ところで、この古代の品種名、奇異な響きのものが多いが、「畔越」は田の畔を越すように育つ、「足張」はまっすぐに張る、「長非子」は長く伸びる、「古僧子」は芒(のぎ)がない、「酒流女」は早く芽が出る、という意。これらの品種名には稲の健やかな生長を願う古代人の思いが込められていたのである。

【参考文献】
平川南『日本の歴史2 日本の原像』小学館 2008年1月

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旧国名の謎

伊予国には伊予郡がある。同様に土佐国には土佐郡があり、阿波国には阿波郡がある。このように国名と同じ郡名を有するところは、上記の他、出雲、河内、和泉、安芸、大隅、薩摩、壱岐、駿河の諸国である。これらの国にはなぜ国名と同一の郡名があるのだろうか。注意を引くのは、これらの国が駿河以外、すべて西国の諸国であるということである。平川南(日本古代史)は、「国名決定の原理には西の諸国と東の諸国で大きな違いがある」といい、次のような指摘をしている。

西国は東国に比べて、早い段階からそれぞれの地域が自立的に地域支配を確立し、一時期は畿内を基盤とするヤマトと拮抗する勢力さえ存在した。しかし、ヤマト朝廷による全国的支配の確立に伴い、それぞれの国の成立に際しては、出雲、吉備などの地域勢力の名称がそのまま国名として命名された。このため、西国の国名については、郡名と同一の国名が多く存在すること、また各国相互の関連性(命名に際しての共通の原理)も認められないことなどの傾向が指摘できるのである。一方、東国はヤマト朝廷に新しく服属した地域であり、朝廷は現地の豪族を国造(くにのみやつこ)に任命し、その勢力基盤とした。そのために東国の国名は西国と異なり、ヤマト朝廷側からの視点で命名されたのではないか。(中略)東国と西国の国名はまったく異なる命名原理のもとに定められ、自立的に命名された西国の国名に対して、東国の国名が中央からの視点で付けられたことが明らかになった。


東国の国名が中央(ヤマト朝廷)からの視点で命名されているというのは、例えば、近江(おうみ)国が都に近い琵琶湖を「近つ淡海(ちかつあわうみ)」と称したことに由来するものであり、遠江(とおとうみ)国が都から遠い浜名湖を「遠つ淡海(とおつあわうみ)」と称したことに由来するものであることなどを指す。この両国はヤマト朝廷から見ての遠近感にもとづいて国名が決定されている。このように東国は中央から見た地形、地理等によってその国名が付けられていて、地域勢力の名称に由来する西国の国名とはまったく命名原理が異なっている。東国と西国で国名の由来にこうした相違があるということは、古代国家の成立過程がいかなるものであるかということを示すものでもある。

[注]平川南引用文中にある「吉備」は令制では備前、備中、備後の三か国に分割され、のちさらに美作が分立した。出羽国にも出羽郡があり、伊賀国にも伊賀郡があるが、この両国は成立事情を異にしている。出羽国は越後国の出羽郡が国として昇格したものであり、伊賀国は伊勢国から分立したものである。

【参考文献】
平川南『日本の歴史2 日本の原像』小学館 2008年1月

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