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キリスト教の聖人として崇められた「釈迦」

中世ヨーロッパ社会に流布したキリスト教の説話に「バルラームとヨサファートの物語」というのがある。伝承ではダマスコのヨアンネスがこの物語の作者とされているが、確かなことはわからない。注目されるのは、この物語が仏伝(釈迦の伝記)にもとづいたものであるということである。中村元博士によると、この物語は「それを包む雰囲気がキリスト教的であるにもかかわらず、物語の骨子はまったく仏伝である」という。

物語のヨサファート(釈迦がモデル)は中世ヨーロッパではキリスト教の聖人として崇敬された。ギリシア正教ならびにカトリックの暦では、毎年この聖人ヨサファートを記念した祭りが行われていたという。

仏伝がキリスト教の聖者伝説となって、ヨーロッパに伝わった経緯について、同博士は「コータンやトルファンの発掘からも知られるように、東イランや中央アジアでは、ゾロアスター教徒、仏教徒、キリスト教徒、マニ教徒が接近して共住していたために、キリスト教の僧侶が容易に仏伝を知ることができて、それに刺激されてキリスト教伝道のための物語を作ったらしい。それは六世紀か七世紀のことであろうか。最初はパフラヴィー語で書かれ、後にアラビア語とシリア語に翻訳された。シリア本からグルジア語訳とギリシア語訳とが作られ、ギリシア語訳がもとになってアラビア、ヘブライ、エチオピア、アルメニア、ラテン、教会ロシア、ルーマニアの諸本がのちに現れた。ヨーロッパ諸語のものはラテン本にもとづいて著されたものである。ドイツ語の諸本は1220年以後現われている」と述べている。

またこの物語は回りまわって日本にも伝えられた。中村博士は下記のように付言している。「この物語は昔の日本人にも知られていた。〈サントスの御作業〉(Acta Sanctorum)として吉利支丹文学のなかに訳されている(日本文で1591年刊)。ところで、それが仏伝にもとづいていることを、当時の仏教徒もキリスト教徒も知らなかったのである」。

【参考文献】
『キリスト教大事典 改訂新版』教文館 1985年10月
『中村元選集[決定版]第19巻 インドと西洋の思想交流』春秋社 1998年1月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

森田樵眠

森田樵眠(しょうみん)は三津の町絵師。寛政7年(1795)、当地に生まれた樵眠は、京都四条派の祖松村呉春の門人、岡本豊彦(備前の人)について絵を学び、三津浜に帰住。養神斎、惺々堂、魯樵などとも号し、文政から幕末にかけて活躍した。明治5年(1872)5月12日、78歳で没す。

樵眠の名は中予地方の寺社に数多くの絵馬を残したことで知られている。惺々堂はその三津にあった絵馬工房の称ではないかともいわれ、白石屋を屋号とした可能性があるともいわれている。作品の多くには森樵眠と記されている。

伊予の地に四条派の画風を初めて伝えたのは樵眠であった。四条派の画風は京都の商人や町衆たちの健全な感覚に合致するものであったといわれる。樵眠の画風も当時の三津浜商人たちの趣味に適うものであった。現存する樵眠の作品としては、松山市阿沼美神社の絵馬《黄忠射纓報関公之図》(47歳作)、伊予市中山大興寺の絵馬《童子読書図》(50歳作)、《松泉清聴図》《鶴図》《羊図》などの画幅がある。

樵眠の門弟には岡本熊眠、松田南雅、松浦巌暉(がんき)らがある。松浦巌暉は三津の人。三津の新町出身の画家、天野方壺も一時樵眠のもとで学んだと伝えられている。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』下巻 愛媛新聞社 1985年6月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 芸術・文化財』 1986年1月
『伊予の画人』愛媛新聞社 1986年11月
矢野徹志『愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ』愛媛県文化振興財団 1996年11月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

松浦巌暉

松浦巌暉(がんき)は三津浜の画人。昨日のブログ記事で述べた森田樵眠の弟子である。『愛媛県百科大事典』、『愛媛県史 芸術・文化財』には巌暉についてそれぞれ次のような記述がある。

松浦巌暉 生年不詳~大正元年(?~一九一二)明治・大正期の日本画家。和気郡三津浜(現松山市三津)の生まれ。京都の岡本豊彦の門下森田樵眠に就き四条派の画流を学んだ。松山で画塾を開き多くの後進を育てた。樵眠の荒っぽい絵に対して、堅い地味な絵を描いた。松山で画塾を開く前、京都画壇で名を成し、大阪の内国博覧会で「安宅の弁慶」が評判となったこともあったが、名利を求めない清潔な画人で、揮毫料も教授料もとらなかったという。花鳥を得意とし、松山市高岡町の弓敷天満宮に、明治二四年(一八九一)作の絵馬「梅花美人図」が残っている。矢野翠鳳、桜井忠温は巌暉の手ほどきを受けた。三津浜には樵眠、天野方壺、岡本熊眠、松田南雅などの画人が住み、一種の文化的環境を形成していた。(『愛媛県百科大事典』下巻)

彼(引用者注-森田樵眠のこと)の門弟松浦巌暉は三津の人。岸雪、洞陽とも号し、四条の画風を伝える。松山中学絵の教師として多くの門弟を養成。当地画壇に大きな影響を残す。大正元年没。(『愛媛県史 芸術・文化財』)


三津浜港のフェリー待合所には、松浦巌暉作《愛媛県三津魚市之賽況図》(松山市中央卸売市場水産市場管理事務所蔵)の拡大写真(原画は縦1.2m、横1.8m)が展示されている。絵の右下には巌暉の落款があり、「応需 丁未秋 七十翁巌暉」と記されている。「応需」は「需(もと)めに応ず」。「丁未」は明治40年(1907)の干支である。同年=「七十翁」(数え年70歳)だから、巌暉の生年は天保9年(1838)ということになる(『愛媛県百科大事典』の記述では巌暉は「生年不詳」)。フェリー待合所の解説パネルや『ぶらり三津浜マップ』(2頁)の記述では、この絵を「松浦厳暉」の「明治41年」の作品としているが、「厳」は「巌」の誤り(「厳」「巌」は別字)、「41年」も「40年」とすべきであろう。

【参考文献】
『愛媛県百科大事典』下巻 愛媛新聞社 1985年6月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 芸術・文化財』 1986年1月
ぶらり三津浜マップ制作委員会『ぶらり三津浜マップ』 2005年3月

【後記】柴田宵曲『明治の話題』(ちくま文庫2006年12月刊)に「老人が齢を高く見せようとするのは世の常態で、揮毫物などに八十とか、九十とか書いてあっても、額面通りに受取れぬ場合が珍しくない」という記述があった。松浦巌輝の「丁未秋 七十翁」という落款も額面通りではないかもしれない。(2010年4月25日記)

テーマ : 歴史
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古三津の純友伝説

古三津5丁目の久枝神社境内に藤原純友(?-941)の駒立岩と称するものがある。純友が駒(馬)に乗り、この岩の上から潮の干満を見たという。境内に設置されている案内板には「純友が駒を立て沖を見たと伝へられている駒立岩は現在地より西北三〇米の田の中にあったが、土地造成中に埋没されていたのを有志の努力で掘り出され昭和五十一年三月にこの地へ移し復元されたものである」と記されている。境内には他にも純友が使っていた井戸の跡と称するものもある。

久枝神社の南にある明神丘には近年建てられたものではあるが、「藤原純友館跡」という石碑がある。地元の伝承ではこの丘に純友の館があった。昔は館の土台石なども残っていたという。古三津地区には他にも純友の乳母の墓と伝える孀塚(やもめづか)、純友の重臣の墓と伝える鬼塚などがあるらしいが、同じ三津とはいえ、古三津のこのあたりともなると馴染みがなく所在地がわからない。

『愛媛県史 民俗下』は古三津地区に伝わる純友伝説を次のように記している。「古三津の大明神山に藤原純友の館があった。純友は築前博多から逃げ帰って、警固使橘遠保に、子供の重太丸といっしょにとらえられた。純友は獄中で死んだ。その首を打って京都に送った。重太丸は京都まで送られて罰せられた。遠保はそのてがらのため宇和郡を賜った」。古三津に純友にまつわる伝承がどうしてあるのか。その理由は明らかではない。

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 民俗下』 1984年3月
ぶらり三津浜マップ制作委員会『ぶらり三津浜マップ』2005年3月

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ジャンル : 学問・文化・芸術

山家清兵衛

山家清兵衛(やんべせいべえ)が須先町(三津1丁目)の宿屋で蚊帳にくるまれ殺害されたという話を子供のころ曽祖母から聞かされたことがある。当時は事実と思っていた。それが三津の口碑に過ぎないということを知ったのはかなりのちである。

宇和島藩の家老、山家清兵衛に関しては不明な事柄が多い。殺害されたのは事実だが、その場所は不明。清兵衛に関する史料は藩の意向でのこされていないらしい。かれについて判明しているのは『愛媛県史 人物』「山家清兵衛」の項目が記す下記のような事柄のみである。

生年不詳-元和6年(~1620)宇和島初代藩主秀宗の時の家老。和霊神社祭神。秀宗の宇和島入部に際し、父政宗により家老に抜擢されたが、入部の費用、大坂城修築の工事費の捻出に苦心し、その返済のための緊縮政策が桜田玄蕃等対立者の反感を買い、秀宗の不満も加わって、上意討と称する一団によって元和6年6月29日暗殺された。その後対立者側の変死が相つぎ、清兵衛の祟りと言われ、初め児玉(にこたま)明神として祀られたが、承応2年桧皮森に移されて山頼和霊神となったという。家老暗殺という藩の命運にもかかわる事件であったため、清兵衛の生涯や事件を伝える資料は遺されていない。しかし口碑伝承としてこの事件は語られ、それを基にして『和霊宮御実伝記』『和霊宮御霊験記』(両書とも同内容)の実録物がつくられ、写本として多く流布した。のち『予州神霊記』等の小説化された実録物、講談本が出まわり、浄瑠璃、歌舞伎にも脚色された。これらの資料に伝わる清兵衛は虚像であるが、清兵衛は小天神としてあがめられ、「和霊信仰」の中に生きていると言える。


三津の口碑として伝わっているのは次のような事柄である。山家清兵衛は須先町の大坂屋という宿屋で蚊帳の中で寝ていたところを襲われた。暗殺者たちはまず蚊帳の吊り手の四隅を切り落とし、清兵衛が動けないようにして斬殺。死骸は蚊帳にくるまれたまま海に投げ込まれた、云々。

三津では、和霊(山家清兵衛の「霊」を神として祀ったもの)の祭日(7月23日~25日)には蚊帳を吊らないという風習があった。三津以外の各地にも古くは同様の風習があり、カヤマチ、ワレイマチなどと呼ばれていたという。

【参考文献】
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 民俗上』1983年3月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近世上』1986年1月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 人物』1989年2月

テーマ : 歴史
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