江戸時代の花火

江戸両国の川開きの花火―江戸時代の花火を代表するのは、この両国の花火であるといっていいだろう。両国の花火は古典落語「たがや」にそのにぎわいが活写されているように、江戸市中をあげての一大イベントであった。この花火の始まりは、享保18年(1733)5月18日に催された両国橋付近の水神祭での打上げにあるといわれている。当初は納涼を楽しむイベントではなく、享保の飢饉の餓死者を供養する夏の火祭行事としての意味をもつものであったという。

その両国の花火には、「玉屋!」「鍵屋!」の掛け声が付きものであった。玉屋、鍵屋はともに花火の製造元。江戸における花火師の祖は万治2年(1659)に大和国から出てきた弥兵衛であるといわれ、かれが鍵屋の初代となった。文化7年(1810)、鍵屋から玉屋が分かれ、両国の花火は天保14年(1843)、玉屋が絶家となるまで、この両者が担当したので、「玉屋!」「鍵屋!」の掛け声が生まれたといわれる。

松浦静山の『甲子夜話』巻28には、享和元年(1801)の打上げ花火に70もの種類、名称があったと記されており、当時の花火の形状がかなり多様であったことが知られる。だが、花火の色に関していえば、江戸時代を通じてその色はただ一色、当時の技術では、木炭の燃える橙色(だいだいいろ)の花火しか作ることはできなかった。

【参考文献】
興津要編『古典落語(上)』講談社文庫 1972年4月
『日本民俗文化大系11 都市と田舎』小学館 1985年8月
『國史大辞典』第11巻「花火」の項(田中宣一) 吉川弘文館 1990年8月
倉地克直『日本の歴史11 徳川社会のゆらぎ』小学館 2008年11月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

「青人草」

『古事記』に「青人草(あおひとくさ)」という言葉がある。「青人草」とは人間のこと。人間を繁茂する草に喩えた言葉である。

汝(なれ)、吾(あ)を助けしがごとく、葦原の中つ国にあらゆる現(うつ)しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)へ惚(なや)む時に助くべし。


『古事記』の上巻、黄泉の国から逃げ帰ることのできたイザナキの神が、かれを助けた桃の実(邪気を払うと信じられた植物)に告げた上記のような言葉の中に「青人草」という語が出る。「お前(桃の実)は、私(イザナキ)を助けたように、青人草が苦しい目にあっている時にはかれらを助けよ」―人間を「青人草」といってその救護を命じるイザナキの言葉には、人間に対する慈しみだけでなく、人間の生命力に対する信頼もあるように思われる。人間をこのように植物に喩えるのは、豊かな自然に恵まれたモンスーン気候の国土ならではのものであろうか、おおらかでおもしろい。

乾燥した砂漠地帯を思考風土とする『聖書』では、人間は「粘土」に喩えられている。粘土といっても粘土でつくられた器を意味するわけだが、『旧約聖書』の「イザヤ書」に次のようにいう。

しかし、主よ、あなたは我らの主。
わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手(みて)の業(わざ)。


神が陶工で、人間は粘土(器)。人間は神の被造物という考え方である。『聖書』はこの陶工と粘土の喩えでもって、人間が神の前に無力であることを強調する。人間を植物に喩える『古事記』と粘土に喩える『聖書』―その優劣を論ずるつもりはないが、この二つの人間観は対極に位置する思考パターンであるといえるだろう。

【典拠文献・参考文献】
倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 1963年1月
西宮一民校注『古事記』新潮日本古典集成 1979年6月
新共同訳『聖書』日本聖書協会 1987年9月
太田献一監修『新共同訳旧約聖書略解』日本基督教団出版局 2001年3月

テーマ : 文明・文化&思想
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「青人草」の類義語

『古事記』に出る「青人草」(人間を繁茂する草に喩えた言葉)については、当ブログ8月2日の記事で述べたが、これと同類の言葉は漢語や仏教語にもある。漢語では「蒼生」「蒼民」「蒼氓」、仏教語では「群萌(ぐんもう)」などが人間を植物に喩えた言葉である。「蒼」の字は草の色。草木のあおあおとして多いさまから、多くの人のことを「蒼生」「蒼民」「蒼氓」などというが、これらは人間一般というよりも人民、民衆、庶民大衆といった意味合いになるのではないかと思う。仏教語の「群萌」は『無量寿経』巻上、『法華経』「化城喩品」、唐訳『華厳経』巻二四などに出る。「群」は多く群集する意、「萌」は草木の芽で、多数の生類を群がり生える草木の芽に喩えていう。「群萌」は直接的には凡夫である人間を指しているが、広くは衆生(しゅじょう)、生きとし生けるものを指す言葉である。「群萌」の語を多用したのは親鸞で、その著作の中には「苦悩の群萌を救済す」「群萌を拯(すく)い恵むに真実の利をもってせんと欲す」「雑染堪忍の群萌を開化す」「濁悪の群萌、斉(ひと)しく悲引したまう」などの表現をみることができる。

長期間、宇宙に滞在していた若田光一さんは地球に帰還した第一印象を「シャトルのハッチがあいた瞬間、地上の草の香りが入ってきて、やさしく地球に迎えられた」と述べている(愛媛新聞8月2日記事)。地球を特徴づけるのは地上に群がり生える無数の植物であろうか。地球上の生きものとしては動物よりも植物の方が嫡子で、植物こそ生命のモデルだという指摘もある(大村英昭『臨床仏教学のすすめ』)。人間はこの植物の惑星である地球に寄生しているだけなのかもしれない。

【典拠文献・参考文献】
『佛教大辞彙』第2巻 冨山房 1914年5月
『望月仏教大辞典』(増訂版)第1巻 世界聖典刊行協会 1954年11月
白川静『字統 普及版』平凡社 1994年3月
大村英昭『臨床仏教学のすすめ』世界思想社 2003年9月
『浄土真宗聖典』註釈版第二版 本願寺出版社 2004年5月

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

二千円札の絵

2000年7月に発行され、今では見かけることもない二千円札の裏面左には、《源氏物語絵巻》〈鈴虫〉の絵が使われていた。この絵に描かれているのは、冷泉院と光源氏の対面の場面。対面している人物の左が冷泉院で、右が光源氏である。物語では、冷泉院は表向き桐壺帝とその中宮である藤壺の子であるが、実は光源氏が藤壺と密通してなした不義の子である。物語の設定は、臣下の身分である光源氏の子が天皇(冷泉帝)になるというものだから実に大胆であるが、帝系の秘密をかかえたこの両者の対面の場面を紙幣の絵柄として採用した政府・日銀も大胆といえば大胆である。二千円札発行当時、国文学者の間では、この絵を紙幣に使うのはいかがなものかと話題になっていたらしい。三田村雅子(平安文学)は次のように述べている。

当時、私や研究仲間は、この絵を政府が発行するお札に使ってよいのかと、密かに話題にしたものです。この絵の背後には、あきらかに密通の主題があり、不義の子が天皇になったという事実が強調されているのですから。これほどあわれ深く美しく、そして危険な絵はないのです。


美しくも危険な絵を描いた二千円札はどこへ消えてしまったのであろうか。

【参考文献】
三田村雅子・芸術新潮編集部編『源氏物語 天皇になれなかった皇子のものがたり』新潮社 2008年9月

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伊能忠敬の三津浜訪問

伊能忠敬(いのうただたか 1745-1818)が全国測量地図作製のため、三津浜を訪れたのは、文化5年(1808)8月1日であった。忠敬の「測量日記」同日条には次のようにある。

八月朔日 朝曇(中略)急テ漸七ツ半頃三津町江着、止宿唐津屋治郎右衛門、別宿門田屋市五郎(中略)着後三津町大年寄天野伝兵衛、同所諸改方加藤庄左衛門(中略)出ル。此夜曇天ニ測量、吾測後、松山浦奉行代官兼矢野佐治右衛門、領主より使者ニ而贈物あり。我等江晒布三端、秀蔵江同品弐端、文助・佐右衛門江同品一端宛(以下略)


忠敬以下の測量隊は8月1日の夕刻、三津に到着した。本宿は唐津屋、別宿は門田屋であった。着後ただちに三津町の大年寄であった天野伝兵衛以下が挨拶に来ている。この日の夜は曇天であったが、測量を実施。測量の終了後には、松山藩主の使者が贈物を届けに来ている。三津町大年寄以下の挨拶、藩主よりの贈物…忠敬の一行に対する扱いはかなり丁重である。この測量事業が幕命を帯びたものであったためであろう。

翌2日、忠敬らは興居島に渡り、11日に高浜に着くまで、島嶼部の測量をおこなっている。高浜に着後、三津町を通り、古三津村、山西村、衣山村、沢村、辻村、味酒村を経て、松山城下町までの測量をおこなった。

『愛媛県史 資料編 近世下』には、忠敬の「測量日記」の本県関係部分が抜粋翻刻されている。日記の記述は綿密で、贈物の品目、数量に至るまで細かく記されている。三津に到着した日の藩主よりの贈物は、ただちに売り払って現金化しているが、旅の荷物となるのでそうせざるを得ないのであろう。

【典拠文献・参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 資料編 近世下』1988年3月
清水正史『伊予の道』愛媛文化双書刊行会 2004年11月

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