湊山城跡

三津浜港の入口にある西港山(標高52m)には、中世城郭の跡「湊山城跡(港山城跡)」がある。湊山城は、建武年間(1334-1338)、河野通盛が道後の湯築城に本拠を移したときに、海の守りとして築城したと伝えられている。中世、伊予国を支配したのは河野氏であったが、嘉吉の変(1441)の後、河野本家(湯築城)の通直(教通)と分家予州家の通春とが対立した。湊山城はこの予州家、河野通春の居城である。寛正6年(1465)、重見飛騨守がこの城で討死。文明10年(1478)には通春が勝利を得て伊予の半国を切り取ったが、同12年(1480)になると、通直が伊予の主導権を奪還した。同14年(1482)閏7月14日、通春はこの城で病没(一説では、港山の北麓で流矢にあたり戦死)。ついには本家方に攻め落とされてしまった。

その後、河野氏は湊山衆と呼ばれる直属の海浜防備隊をこの城に置いて、怱那氏に統率させた。湊山衆は16世紀後半、海上から侵入してくる大友氏や毛利氏らの軍を撃退するのに大きな役割を果たした。天正13年(1585)6月、羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景の軍勢が伊予の城々を攻撃、湊山城も落城した。隆景はこの西港山に新城を築き、伊予支配の拠点にしようとしたが、突然の領国替えで建築中の新・湊山城は未完成のまま放棄された。江戸時代には、松山藩が海防のために、この山の西端に出丸を築いたことがあったという。

現在、この山の東側の道路沿いに案内板があり、登山口があるが、奥は竹藪、雑木が生い茂っていて登ることはできない。山の南麓には湊三嶋神社がある。屋根瓦には河野家の家紋があるという。港山の北の新浜町には河野通春を祀った祠(通称「彦四郎さん」)がある。

▼ 湊山城のあった西港山
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▼ 河野通春を祀った祠(「彦四郎さん」)
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【参考文献】
児島幸多・坪井清足監修『日本城郭大系』第16巻 新人物往来社 1980年3月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』 1984年3月

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ジャンル : 学問・文化・芸術

中世戦国城郭

湊山城(当ブログ7月1日記事参照)のような中世戦国城郭(16世紀中葉以前の城郭。近世城郭のような天守は存在しない)は決して珍しいものではない。今谷明の著『戦国の世』によると、中世戦国城郭は北海道と沖縄を除くほぼ全国に散在しており、その数は一県に千から数千、全国には無数といっていいくらいあるという。当時、全国の各地域を支配していた武将たちが人々を動員して構築した一大土木事業の結果が、それほどの数となってあらわれているわけだが、日本の歴史上、そうした大規模な土木事業が全国的規模で行われたのは、それ以前では古墳時代があるだけだった。古墳時代も全国の至るところで人々が使役され動員されて、各地に無数といっていいほどの古墳が建造された。前掲書は、「古墳は国家の創成期に出現し、戦国城郭は国家の再編成期に登場した遺物である」といい、古墳が終了した直後には律令国家、戦国城郭が終了した直後には徳川幕藩制国家、ともに中央集権色のつよい統一国家がこの国土に出現したと指摘している。古墳時代も戦国時代も中央集権国家へと向かう過渡期。一大土木事業の時代はともに統一へと向かう過渡期であった。古墳と中世戦国城郭、この二つを対比させると、日本史を俯瞰する構図が見えてくるのである。

【参考文献】
今谷明『戦国の世 日本の歴史5』岩波ジュニア新書 2000年2月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

「天璋院様の御祐筆の…」

夏目漱石は子どもの頃から寄席通いが好きで、落語を聴くことをとりわけ好んだ。漱石の作品にはその落語の影響を認めることができる。落語の影響は、初期の作品『吾輩は猫である』において特に著しいが、その『猫』の中でも、「吾輩」と二弦琴のお師匠さんに飼われている「三毛子」の下記のような会話は、落語そのものといっていいような内容となっている。

障子の内で御師匠さんが二弦琴を弾き出す。「宜(い)い声でせう」と三毛子は自慢する。「宜い様だが、吾輩にはよくわからん。全体何といふものですか」「あれ?あれは何とかつてものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きて居る位だから丈夫と云はねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間(ま)が抜けた様だが別に名答も出て来なかつたから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かつたんだつて。いつでも左様(さう)仰しやるの」「へえ元は何だつたんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行つた先きの御(お)つかさんの甥の娘なんだつて」「何ですつて?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の語嫁にいつた……」「成程。少し待つて下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらさうぢやないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでせう」「えゝ」「御祐筆のでせう」「さうよ」「御嫁に行つた」「妹の御嫁に行つたですよ」「さうさう間違つた。妹の御嫁に入つた先きの」「御(お)つかさんの甥の娘なんですとさ」「御つかさんの甥の娘なんですか」「えゝ。分つたでせう」「いゝえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰る所天璋院様の何になるんですか」「あなたも余つ程分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行つた先きの御つかさんの甥の娘なんだつて、先つきつから言つてるんぢやありませんか」「それはすつかり分つて居るんですがね」「夫(それ)が分りさへすればいゝんでせう」「えゝ」と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言(うそ)を吐かねばならぬ事がある。



この一段は落語の「寿限無(じゅげむ)」を連想させるとも、「金明竹」の後半を連想させるともいわれている。落語特有のよどみない会話の呼吸、それがこの一段にみごとに再現されているように思われる。ところで、ここでは天璋院がさほど時を隔てない人物として語られていて、『猫』が書かれた時代というものを考えさせられる。徳川十三代将軍の正室、天璋院篤姫が死去したのは、明治16年(1883)11月、「ホトトギス」に『猫』の連載が始まったのが、明治38年(1905)1月である。明治38年の時点では、天璋院は過去のまだそれほど遠くない人物であった。その時点では、江戸時代の人間も、さらにいえば、江戸時代そのものも断絶した遠い過去ではなく、連続した近い過去に位置していたのである。明治の人々にとって江戸時代は手を伸ばせばとどくほどの時間的距離にあった。夏目漱石が生まれたのも慶応3年(1867)、まだ江戸時代である。まだそれほど遠くない江戸時代から漱石が受け継いだ遺産は落語だけではなかったように思われる。

【典拠文献・参考文献】
『漱石全集』第1巻 岩波書店 1993年12月
水川隆夫『漱石と落語 江戸庶民芸能の影響』彩流社 1986年5月

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子規と三津浜

正岡子規の外祖父、大原観山は文政元年(1818)、三津浜の船手、加藤重孝の第三子として生まれた。子規の父、正岡隼太常尚は安政2年(1855)7月から翌年2月まで三津御陣道具預の任にあり、文久3年(1863)には、常詰として三津浜居住を命じられている。

明治12年(1879)の梅雨の某日、数え年13歳の子規は、友人と三津浜に遊んだ。同年の子規の作文「雨中海浜眺記」はこの時のことを記したものである。同14年5月11日、子規は学校の遠足で三津浜に行った。後日の作文「三津浜ニ遊ブ記」はこの遠足について記したものである。翌年7月16日、親友、三並良の上京を三津浜で見送った。「送三並清貧東行」七首はその送別の漢詩である。翌年6月10日、今度は子規自身が三津浜から東京へ出立。後年、子規はこの三津浜出航を生涯の悲痛事二件の一に数えている。

東京に移住した後、故郷への帰省は三津浜着、出立は三津浜発というのが子規の通例であった。明治20年(1887)、夏季休暇での帰省中、子規は三津浜の俳諧の宗匠、大原其戎を訪問した。其戎は子規唯一の俳諧の師である。同22年9月9日、子規は三津の溌々園(三津のいけす)という料亭を訪れた。以後、同25年までの間に子規は13回(もしくは14回以上)溌々園を訪れている。同園は子規なじみの料亭であった。明治24年(1891)、溌々園での子規の句、

 三津いけすにて
初汐や帆柱ならぶ垣の外



明治28年(1895)10月17日、子規は東京へ帰るべく、夜、三津浜の久保田(窪田)回漕店に移った。翌日、親友の柳原極堂ら十名が子規を見送るため、久保田回漕店に赴き、同店で子規と晩餐をともにした。

 諸友に三津迄送られて
酒あり飯あり十有一人秋の暮


という子規の句はこの時の光景をよんだものである。同日は船の出航が遅れたため、極堂らは夜10時頃、終列車で帰った。その別離をよんだ子規の句、

 留別
十一人一人になりて秋の暮


翌19日、子規は三津浜を発った。以後、一度も帰省することがなかったから、これが子規の郷里の見おさめとなった。

子規が宿泊した久保田回漕店は、現在の三津3丁目にあった。当時は海岸線が今よりも東寄りにあり、同回漕店辺りの浜は「久保田の浜」と呼ばれる美しい浜であったという。当時、三津浜にはまだ汽船が接岸できるような設備はなかったため、乗客は久保田の浜から艀(はしけ)で沖に停泊している汽船に運ばれた。子規が見た郷里の最後の光景はこの久保田の浜ということになる。

現在、三津1丁目の三津浜緑地内に「きせんのりば」「きせんとゐや久保田」と記す石柱があるが、往時はこれが久保田の浜にあって、汽船乗り場の目じるしとなっていた。三津浜緑地には「十一人一人になりて秋の暮」の句碑もたてられている。

【付記】子規の其戎訪問については当ブログ4月2日の記事、溌々園については3月22日の記事を参照していただきたい。三津ふ頭、水産市場正面には「われに法あり君をもてなすもぶり鮓」「ふるさとや親すこやかに鮓の味」「われ愛すわが豫州松山の鮓」の子規の句碑、三津浜小学校近くの梅田町郵便局前には「舟つなぐ三津のみなとの夕されば苫の上近く飛ぶ千鳥かも」の子規の歌碑がある。

【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
佐々木忍『松山有情』愛媛教科図書株式会社 1978年5月
『子規全集』第22巻 講談社 1978年10月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月

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女戦国大名

室町幕府の実力者、細川政元は姉の洞松院尼(とうしょういんに)を還俗させ、有力守護、赤松政則に嫁がせた。政略結婚である。夫政則の死後、洞松院尼は赤松家の実権を掌握し、同家の領国、播磨・備前・美作3か国を事実上支配した。女戦国大名の誕生である。洞松院尼は「めし様」「赤松うばの局(つぼね)」などと呼ばれ、実に三十年以上にわたって、領国3か国に権勢を振るいつづけた。敵地に乗り込んで幕府の実力者、細川高国と対等に談判し和議にもちこんだこともあったから、かなりの政治力も有していた。戦国時代の北条政子ともいえるような人物である。

京都の公家、中御門宣胤(なかみかどのぶたね)は、のちに寿桂尼と名のるわが娘を駿河の大名、今川氏親に嫁がせた。彼女は夫氏親の死後、尼となり、わが子氏輝を後見して今川家の実権を握った。次子義元が桶狭間で戦死した後も、孫の氏真を後見して領国内に勢威を及ぼしつづけた。寿桂尼の生存中は武田信玄ですら彼女を憚って、駿河に侵略の手をのばさなかったといわれる。

戦国時代には、洞松院尼、寿桂尼という二人の女戦国大名がいて権勢を発揮した。一見、男性原理そのものと見える戦国社会は、そうした母性の権力を容認する柔軟性があったと中世史家の今谷明は指摘している。

【参考文献】
今谷明『戦国の世 日本の歴史5』岩波ジュニア新書 2000年2月

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