「公儀」「朝廷」「幕府」

江戸時代、「幕府」は主に「公儀(大公儀)」と呼ばれていた。渡辺浩『東アジアの王権と思想』によると、「現在のように、幕府という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある」ということである。後期水戸学―天皇中心の政治体制を構想する思想。藤田幽谷(1774-1826)、その弟子、会沢正志斎(1782-1863)、幽谷の子、藤田東湖(1806-1855)らがそれを唱え、しきりに「幕府」の語を用いた。なかでも、とくに東湖の『弘道館記述義』が直接の原因となって、「幕府」の語が「尊王攘夷」の語とともに流行語になったという。同書の再稿完成は弘化4年(1847)、大政奉還のわずか20年前である。「幕府」という語の一般化はかくも遅い時期に始まった。

後期水戸学が「幕府」という語を用いたのは、徳川政権が京都の天皇から任命された将軍の政府であることを強調するためであった。将軍の政府=「幕府」は所詮、天皇の権威の下にあるものでしかない、徳川政権をそう位置づけようとする意図がそこにはあった。「幕府」の語はしたがって徳川政権を軽くみようとする意味合いを含んでいる。

後期水戸学によって、「幕府」の語が一般化する以前、意外なことだが、徳川政権は、時として「朝廷」と呼ばれることもあった。前記、渡辺浩の書は、徳川政権が「朝廷」「朝庭」「東都の朝廷」などと呼ばれた実例を種々示している。当時の人々にとっては、現に天下を統治している政権だからその呼称も決して不自然なものではなかった。

時に「朝廷」と称されることもあった「公儀」=徳川政権が、後期水戸学の影響によって「幕府」と呼ばれるようになったのは、既記のように、政権の崩壊が間近に迫った時代であった。「公儀(朝廷)」は、「幕末」に「幕府」となったのである。

【付記】中村彰彦(作家)、山内昌之(国際関係史)は、水戸学をテーマにした対談の中で、

中村 水戸学を突き詰めていけば、最後はテロリズムの肯定につながっていきますから。
山内 そのとおりです。テロリズムが幕府を滅ぼし、水戸を滅ぼしたのですね。


と述べている。

【参考文献】
渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会 1997年10月
中村彰彦・山内昌之『黒船以降 政治家と官僚の条件』中公文庫 2009年1月

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髷(まげ)を結う

幕末の水戸藩下級武士の生活を聞き書きした山川菊栄『武家の女性』(初刊1943年)によると、当時、武士の家で男の髪を結うのは一家の主婦の役割で、これは「力のいる、骨の折れる仕事」であったという。当時の男の髪は鬢つけ油で固めていたから、それをとかすだけでも楽ではなく、さらにそれを「木の棒のように固めて引きのばした上で、元結(もとゆい)で根を強く強くくくり、折りまげてチョン髷に結う」のだから、「始めからしまいまでまるで油で固めた棒と取組むようなもの」であった。年をとって髪が少なくなり、自分の髪で髷を結うことができなくなると、残った髪を鬢つけ油でなで上げて、つけ髷をしたが(髷がないと礼儀にかなわない)、夏場などは鬢つけ油が溶けて、つけ髷がゆるみ取れそうになることもある。山川菊栄の祖父は明治維新後、「つけ髷の苦労のなくなっただけでも、どんなにホッとしたか分からない」と述懐したそうである。当時は、「女も髪を洗うのは盆暮ぐらいなもの」で、男はめったに洗うことはなかったらしい。

【付記】『武家の女性』には、江戸時代の髪について次のような記述がある。

幕府初期の水戸の生活はいたって質素なお粗末なもので、元禄時代までは殿様でも洗い髪に油をつけず、そのまま結ったといいいます。初めて油をつけ出したのが幕府中期のことで、そのころ、ハイカラ息子が流行を追うて髪に固い油をぬるのを見て膏薬をつけていると思った父親があったとか、家来が息子の髪に油を塗ってベタベタ平手で叩くのを見て、無礼者とばかり、斬って捨てようとした親があったとか伝えられるくらい、初めは珍しく、かつ甚だ柔弱な、武士からぬおしゃれと考えられたものですが、太平二百年の後には、油で固めなければ武士の作法に叶わぬように思われていました。
しかし幕末に世の中が騒がしくなるとともにそういう悠長な真似はしていられなくなり、維新前後の志士の肖像や、彰義隊の絵草紙に出ている勇士のように、髪は総髪にして紫のふとい紐で根をくくり、うしろへさげているのがはやるようになりました。それだけ活動に便利なものが要求され、はやりもしたわけなのですが、水戸あたりでは、あの髪は軽薄でキザだといって年寄は嫌いました。



江戸時代、湯屋では洗髪をしなかったらしい。大石学(日本近世史)は「習慣によるものか、湯屋の営業方針からか、江戸時代には湯屋では洗髪をしなかった」と述べている。

【参考文献】
山川菊栄『武家の女性』岩波文庫 1983年4月
『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』「別冊 江戸をゆく」小学館 2002年12月

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江戸時代の末期、天皇の昼の食膳には、鯛の塩焼きが決まって出ていたそうである。鯛の大きさも規則で目の下一尺(約30センチ)と定められていた。当時の宮廷事情に詳しい一条家の家臣、下橋敬長(しもはしゆきおさ)はこういっている。

昼の御膳 その(お皿の)数はなかなかたくさんで、鯛などは、御規則で目の下一尺、毎日毎日よく揃えたものでございます。御出入りの魚屋から板元に出します。板元で塩焼きにして御器に載せ、お三方(台の付いた方形の折敷)に載せます。立派に揃うた鯛で、鯛のつかぬことは一日もございませぬ。(下橋敬長『幕末の宮廷』)


平安貴族が珍重したのは、鯉料理であったが、江戸時代になると鯛が好まれるようになった。江戸後期の漢詩人、柏木如亭(じょてい)が著したグルメ本『詩本草』は、鯛について、

鯛魚(ちょうぎょ)は海族の冠たり。(中略)花時、味もっとも多し。吉備の金山鯛と称するもの、甘美絶倫、実に海内第一なり。


と述べている。「花時」は桜の咲く季節、「吉備」は現在の岡山県と広島県東部、「金山鯛」は桜鯛の異称である。手持ちの俳句歳時記は、桜鯛について、「春、産卵のため内海の浅場に入り込んで来るマダイのこと。その頃雄のマダイは、腹部が赤味を帯び、婚姻色を示す。ちょうど花どきにあたり、その色を賞美して、サクラダイ、ハナミダイという。瀬戸内海にマダイが入りこむのは、4月20日前後といわれている。鳴門、紀淡、明石などの海峡を通って入りこむので、ナルトダイ、アカシダイなどともいう」と記している。アカシダイについては、谷崎潤一郎の名作『細雪』に言及がある。

幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答え貞之助におかしがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説によると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。彼女のそういう心の中には、自分の生まれた上方(かみがた)こそは、日本で鯛の最も美味な地方、―従って、日本の中でも最も日本的な地方であるという誇りが潜んでいるのであったが、同様に彼女は、花では何が一番好きかと問われれば、躊躇なく桜と答えるのであった。(中略)鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。(上巻 十九)


『詩本草』では吉備の桜鯛、『細雪』では明石鯛が一番とされている。正岡子規には桜鯛をよんだ句がある。

俎板(まないた)に鱗(うろこ)ちりしく桜鯛


都道府県の中には「県魚」を制定しているところがある。愛媛県の県魚はマダイと制定されている(平成5年6月15日制定)。

【典拠文献・参考文献】
現代日本文学館17『谷崎潤一郎 2』文藝春秋 1967年5月
下橋敬長 羽倉敬尚注『幕末の宮廷』平凡社東洋文庫 1979年4月
高浜虚子選『子規句集』岩波文庫 1993年4月
「新版・俳句歳時記」編集委員会編『新版・俳句歳時記 第二版』雄山閣 2003年4月
柏木如亭著 揖斐高校注『詩本草』岩波文庫 2006年8月

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「藩」

「藩」という語は、8代将軍徳川吉宗の時代においてもまだそれほど一般的な言葉ではなかった。「藩」の語が一般化するのは、18世紀半ば以降だそうである。しかも、江戸時代を通じて「藩」は公式の用語ではなく、明治2年(1869)の版籍奉還から、同4年の廃藩置県までの間、公式の名称であったに過ぎない。このわずか2年たらずの「知藩事」制度があった期間のみが、公式に「藩」だったのである。江戸時代に「藩」はなかった―公式にはそういうことになる。

【参考文献】
渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会 1997年10月

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お歯黒

江戸時代の天皇、公家は「お歯黒(鉄漿)」をしていた。一条家の家臣、下橋敬長(しもはしゆきおさ)は、

隔日あるいは三日目に、その時分には主上(天皇のこと)を始め堂上一同は、女と同様に鉄漿(かね)をお付け遊ばします。その鉄漿や五倍子(ふし)の粉は寺町通竹屋町下ル川端陸奥大掾という者から差し上げることになっております。(『幕末の宮廷』)


と語っている。「お歯黒」は、鉄片を加熱して酢、酒、出し茶などの中に漬け、褐色になるまで密封して作った。素材が鉄であることから「鉄漿」ともいう。使用の際は、加熱してタンニンを主成分とする五倍子粉(ふしこ)と交互に歯に塗布した。お歯黒は元来、女子の成人を示す化粧であったが、院政期頃から男子も「鉄漿始め」をする風習を生じた。江戸時代には成人女性と天皇、公家の風習となって残った。

江戸時代の女性は結婚が決まると、お歯黒をし、子どもができると眉を剃り落とした。今の感覚からすると、異様としか思えないが、山川菊栄『武家の女性』(初刊1943年)によると、当時は「おとなの女が、白歯で眉を落とさずにいれば、化物のようだといわれたくらい」であったという。

明治元年(1868)正月、皇族、公卿の涅歯(お歯黒のこと)・点眉は依遵するに及ばずと公達され、同6年3月には宮内省から「皇太后、皇后、御黛・御鉄漿廃せられ候旨仰せ出され候事」と発表されたので、一般もこれにならい、お歯黒の風習は次第に廃れていった。山川菊栄の祖母、きくは歯の質がよすぎてお歯黒を塗るのに苦労したので、「御一新(明治維新のこと)後はこの苦労から解放されてホッとしたものです」と述懐したそうである。

【参考文献】
下橋敬長 羽倉敬尚注『幕末の宮廷』平凡社東洋文庫 1979年4月
『國史大辞典』第3巻 吉川弘文館 1983年2月
山川菊栄『武家の女性』岩波文庫 1983年4月
『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』小学館 2002年12月

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