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「てふてふ」

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。


 上引は安西冬衛(1898-1965)の詩集『軍艦茉莉』の「春」と題する有名な一行詩である。「韃靼海峡(だったん-)」は間宮海峡(タタール海峡)の古称。「てふてふ」は「ちょうちょう(蝶々)」の歴史的仮名遣いである。この一行詩、もし「蝶々が…」の表記であったら、詩の価値は半減するのではないだろうか。
 「てふ」の表記は、萩原朔太郎(1886-1942)も好んで用いた。詩集『青猫』の「恐ろしく憂鬱なる」と題する詩では、この語が極めて効果的に用いられており、詩の末尾には、「〈てふ〉はチョーチョーと読むべからず、蝶の原音は〈て・ふ〉である。蝶の翼の空気をうつ感覚を音韻に写したものである」という異例の自注も施されている。
 「てふ」という語は、もともと漢字「蝶」の中国語の発音を仮名で写したもので、tefuと発音されていた。これを現在ではチョウと発音しているわけであるが、国語学者の大野晋はその発音が変化する経緯について次のように述べている。tefuのfが弱くなって、wになり、さらに消失して、teuと発音するように変わり、teu →teō → tiō → tyō という変化を経た。「今日 ケフ→キョウ」も「蝶 テフ→チョウ」と全く同じ経過をたどって発音が変化している(以上要旨)。
 「てふ」の表記が「蝶の翼の空気をうつ感覚」に由来するという朔太郎の説は、この語を和語とみたものであろうか。おもしろい説ではあるが、「てふ」は、元来、和語ではなく、上述したように、漢字「蝶」の中国語音を仮名で写したものである。白川静の『字統』によると、「蝶」の字は、「声符は枼(よう)。枼は葉、うすくひらひらするものの意がある」と記述されているから、字の成り立ちとしては「ひらひらする」感覚に由来しているものと思われる。朔太郎の説は、「中(あた)らずと雖も遠からず」といったところであろうか。

【参考文献】
大野晋『日本語をさかのぼる』岩波新書 1974年11月
三好達治選『萩原朔太郎詩集』岩波文庫(改版) 1981年12月
白川静『字統 普及版』平凡社 1994年3月
大岡信『折々のうた 三六五日』岩波書店 2002年12月

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

港町と城下町

正岡子規、数え年15歳の時の作文に「三津浜ニ遊ブ記」と題するものがある。明治14年(1881)5月11日、学校の遠足で三津浜に行ったときの思い出を記した五百数十字からなる文章で、その書き出しは、「三津浜ハ城西一里余ニアリ 和気郡中ノ名邑ニシテ昼夜往事織ガ如ク実ニ国中ニ冠タリ」となっている。「往事」とあるのは子規自身の誤記で、正しくは「往来」。町の繁華なさまを描写して、「昼夜往来織るが如く」という。当時の三津浜は瀬戸内屈指の港町として繁栄しており、「和気郡中の名邑にして、(伊予の)国中に冠たり」という少年子規の評言も決して誇大なものではなかった。

南々社刊『瀬戸内海事典』によると、遠く室町時代にまでさかのぼれば、日本で都市といえるのは、京都、奈良、鎌倉以外では、各地に散在する港町だけであったという。近世になると、全国に約300の城下町が一挙に形成されるわけだが、城下町は大名の城を中心につくられた計画都市で、その面積の過半は武士の住む侍地(侍屋敷)が占めており、商人、職人の住む町人地(町屋敷)は町の一画に付随してあるに過ぎなかった。城下町の大半を占める侍地は人口密度も希薄で、人の往来も少なかったから、町とはいっても、賑やかさもなければ華やかさもない、恐ろしく森閑とした町、城下町とはそうしたものであった。前記『瀬戸内海事典』は、「港町は大都市」であるといい、「港町から見れば、城下町なぞは田舎町なのである」とまでいっている。

城下町、松山の小唐人町(現在の大街道2丁目)に生まれた安倍能成(1883-1966)は、6歳の頃(明治20年代初頭)、母親に連れられて三津浜を訪れたことがあるが、そのときの町の印象を「港の町」と題するエッセーで、「狭い町通りはかなり賑やかで、荷馬や荷車の往来も繁かった」と述べている。正岡子規も安倍能成も三津の町についてまず述べたのは、その賑やかさであった。現在、三津浜は松山市内の一地区に過ぎないが、元来、城下町、松山とは全く性格を異にした町、小とはいえ都会風の喧騒に満ちた昼夜往来織るがごとき町であったのである。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第9巻 講談社 1977年9月
『安倍能成選集』第1巻 日本図書センター 1997年9月
『瀬戸内海事典』南々社 2007年12月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ハヒフヘホの音

 ハヒフヘホの音は、中世以前では上下の唇を合わせて発音する Fa Fi Fu Fe Fo の音であった。そのことは戦国末に来日したキリスト教宣教師たちがのこした資料などによって立証されているが、下に記す中世のなぞなぞの一つもハ行がF音であったことを立証する有力な国語資料の一つである。

はゝには二たびあひたれどもちゝには一どもあはず



 このなぞなぞの答えは「くちびる」。当時、「はゝ(母)」の音はファファであったから、これを発音すると両唇は二度合うことになるが(=「はゝには二たびあひたれども」)、「ちゝ(父)」の音では唇は離れたままで合わさることはない(=「ちゝには一どもあはず」)。中世に「はゝ」の発音がHaHa であったら、こうしたなぞなぞは生まれてこない。ハ行音は奈良朝以前からF音で、室町末期までこの状態が続き、近世にH音へと変化した。この変化は日本人の顎(あご)の骨の後退という骨格の年代的変化と密接な関係があるともいわれている。
 なお、上記のなぞなぞは、天理図書館蔵『なぞだて』の中の一つ。同書の奥には「永正十三年正月廿日(花押)」とある(永正十三年は西暦1516年)。岩波文庫『中世なぞなぞ集』には同書をはじめとする中世のなぞなぞ本が翻刻されている。

【典拠文献・参考文献】
大野晋『日本語をさかのぼる』岩波新書 1974年11月
鈴木棠三編『中世なぞなぞ集』岩波文庫 1985年5月

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

三津の呼称

 『日本書紀』「神代下」に出る地名に出雲国の「三津之碕(みつのさき)」というのがある。この「三津」は、『出雲国風土記』嶋根郡の条に出る「御津浜(みつのはま)」と同地らしいが、岩波文庫本『日本書紀(一)』の注によると、「ミツは舟着場としてありふれた地名。各地にある」ということである。『万葉集』には、「大伴乃美津能濱(おほとものみつのはま)」(巻1の68)、「住吉乃三津(すみのえのみつ)」(巻19の4245)、「難波能美津(なにはのみつ)」(巻20の4331)という形で地名「ミツ」が見出されるが、これらはいずれも遣唐使の発着した難波津(現在の大阪)を指したものである。古代史家の直木孝次郎はその著『額田王』で、「〈三津〉は難波津の意味に用いたり、〈住吉の三津〉といったり、重要な港という場合に用いられる」と述べている。「ありふれた地名」、「重要な港」―解釈に相違はあるが、いずれにしても書記や万葉の時代の「ミツ」に、伊予国の三津は登場しない。古代の伊予国三津については史料がなく、三津と呼ばれていたかどうかもわからない。『万葉集』の額田王の歌(巻1の8)に出る「熟田津(にきたつ)」が三津であったとすれば、古代にまでさかのぼり得る重要な港ということになるが、「熟田津=三津」説を唱える学者は今では少ないのではなかろうか(直木孝次郎は前掲書で控えめに「ひとまず三津湊説にしたがっておく」といっている)。

 「ミツ」の「ミ」は接頭語で美称、「ツ」は港、船着場の意であるが、伊予国の三津は「水居津」の転訛とする説もある。『角川日本地名大辞典38 愛媛県』の「三津」の項には、「地名三津は戦国期の記録に見えるが、地名の伝承は古く、伊予王子の第3子の船がこの地に着いたことから御津と称したとか、行幸の船を泊めたのにちなむなどの説があり、はじめ御津と書いたが、のちに熟田津、飽田津、就田津の3つの名により三津と書き改めたという伝承もある(温故録)。しかし〈楠木合戦注文〉の正慶2年閏2月1日の条に周防・長門2か国の守護職の北条時直が南朝方の伊予国の国人土居九郎の館を攻め、さらに同3月11日には〈伊予国水居津〉に攻めたが、ともに敗退したということが記載されており、水居津が当地のことであれば、三津の古名を水居津といったとも推定される」とあり、三津の古名が「水居津」であったことを示唆しているが、平凡社刊『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』には、「三津の地名は古代の文献に記載されることなく、鎌倉末期になって、ようやく水居津の地名が現れるにすぎない。しかも水居津を三津にあてることには異論もある」とあって、「水居津」説には否定的である。

 江戸時代の行政区画としては、臨海の市街地が三津町、隣接する農村地域が古三津村であった。この三津町の通称が「三津ケ浜」であるが、「三津ケ浜」は、元は「三津の浜」と呼ばれていたと内藤鳴雪(1847-1926)がいっているようである(安倍能成のエッセー「肴及び肴売」に「松山に近い港町に三津ケ浜がある。内藤鳴雪翁の話によると、元は三津の浜といったさうである。三津の浜といふ方が和らかで典雅であるが、私の知った頃は既に三津ケ浜であった」とある)。既記のように、古くは風土記、万葉の時代に、伊予以外の地で「ミツノハマ」という呼称があった。それほど古い時代ではもちろんないとしても、鳴雪の若年時、幕末頃には「三津の浜」「三津ケ浜」、両様の呼称が用いられていたのかもしれない。

【典拠文献・参考文献】
中西進『万葉集 全訳注原文付 一』講談社文庫 1978年8月
中西進『万葉集 全訳注原文付 四』講談社文庫 1983年10月
大石慎三郎監修『日本歴史地理大系39 愛媛県の地名』平凡社 1980年11月
『角川日本地名大辞典38 愛媛県』角川書店 1981年10月
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波文庫 1994年9月
『安倍能成選集』第1巻 日本図書センター 1997年9月
植垣節也校注『新編日本古典文学全集5 風土記』小学館 1997年10月
伊藤博『萬葉集釋注 一』集英社文庫 2005年9月
伊藤博『萬葉集釋注 十』集英社文庫 2005年12月
直木孝次郎『額田王』吉川弘文館 2007年12月

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

生類憐みの令

「生類憐みの令」といえば、極端な犬の愛護令で、徳川綱吉個人の性格に起因する将軍専制体制下の悪法というイメージがあるが、実際には捨て子、捨て病人、捨て牛馬の禁止をめざしたもので、犬の愛護が中心的な施策ではなかった。その犬の愛護についても、相応の社会的背景があり、合理的な一面もあったようである。当時、江戸の町などでは、野犬が横行し、犬害が大きな問題となっていた。また、「かぶき者」と呼ばれる無頼の徒が飼犬・野犬の区別なく、犬を殺傷し捕食することも頻繁に行われていた(驚くべきことに生類憐みの令以前には犬を捕食する習慣があった)。綱吉政権の犬に関する諸令には、異常ともみられる一面があったことは否定できないが、野犬対策と無頼の徒の取り締まりという政権が行うべき当然の施策という意味も認められるようである。江戸の四谷と中野に設けられた犬小屋に収容された野犬も、実は牝犬のみで、犬の繁殖を抑えようとする意図があったという。

「生類憐みの令」について、現在の高校日本史教科書には、「この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」とある。戦前の史学者、三上参次の「生類憐みの令は古今東西の歴史中にその例全く見ることあたわず。悪政・虐政等いかなる形容詞を用いるも飽き足らざる政治なり」という評言と比べるとかなり見方が変わって来ていることがわかる。

【参考文献】
『國史大辞典』第7巻「生類憐みの令」の項(松尾美恵子) 吉川弘文館 1986年10月
三上参次『江戸時代史 上 新装版』講談社学術文庫 1992年9月
塚本学『生類をめぐる政治 元禄のフォークロア』平凡社ライブラリー 1993年8月
石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦『詳説日本史 改訂版』山川出版社 2007年3月
佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖『詳説 日本史研究』山川出版社 2008年8月
倉地克直『日本の歴史11 徳川社会のゆらぎ』小学館 2008年11月

テーマ : 歴史
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