「猫の島」

DSCN1406_convert_20170305181434.jpg

松山城山頂広場より西方伊予灘方面。海上の島は「猫の島」として知られる青島であろう。

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 日記
ジャンル : 学問・文化・芸術

牛耕が主流だった伊予国

古國の伊豫の二名(ふたな)に馬はあれど牛がしろかく堅土(かたつち)にして


子規、明治33年(1900)作の歌。「伊豫の二名」は『古事記』では四国の総称(『古事記』上巻では四国全体が「伊豫之二名嶋」と称されている)であるが、ここでは伊予国の別称。伊予国は堅土だから牛が代掻(しろか)きをすると詠んだ歌である。この歌に詠まれている通り、伊予では牛耕が主流であった。東日本は馬耕、西日本は牛耕、西日本でも九州は馬耕という傾向があったらしいが、伊予では明治初期頃より牛耕が普及、昭和初期の段階で松山平野では牛耕率が90%に達していた。代掻きの季節には牛をつかっての作業風景が松山平野の一円で見られたらしい。

【参考文献】
『子規全集 第六巻 短歌 歌会稿』講談社 1977年5月
「松山平野における牛耕の普及と盛衰」窪田重治(伊予史談310号・1998年7月)

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

本尊山

DSCF1251_convert_20141224075657.jpg

伊予市上灘(旧双海町上灘)の本尊山(ほぞん-。標高187m)。上灘川の河口近く、伊予灘に面して聳えるこの山には中世、城郭があった(由波城・由波本尊城)。得能通時(河野通有の孫)が建武2年(1335)から数年をかけて築城したというが(『双海町誌』)、確かではなく、築城者・築城年代ともに不明というべきであろう(『日本城郭大系』)。文献史料の上では、貞治4年(1365)、由波通遠(得能通遠)が由波城主として初めて登場。その後、代々由波氏の居城であったが、天正13年(1585)、小早川隆景によって開城、まもなく廃城となったという。昭和の後半頃までは上灘の漁民の魚見台としてこの城跡が利用されていたらしい。

【参考文献】
『日本城郭大系 第十六巻 大分・宮崎・愛媛』新人物往来社 1980年3月
双海町誌編纂委員会編『双海町誌』2005年3月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大洲市「白滝公園」

DSCF1253_convert_20141127160721.jpg

JR伊予白滝駅。この駅から徒歩数分のところに七つの滝と秋の紅葉で知られる「白滝公園」がある(この公園の滝は日本で一番「駅から近い滝」であるという)。

DSCF1281_convert_20141127160758.jpg

DSCF1295_convert_20141127160939.jpg

DSCF1307_convert_20141127161021.jpg

DSCF1311_convert_20141127161106.jpg

DSCF1312_convert_20141127161151.jpg

DSCF1337_convert_20141127161236.jpg

DSCF1346_convert_20141127161320.jpg

DSCF1356_convert_20141127161405.jpg

DSCF1350_convert_20141127161440.jpg

DSCF1342_convert_20141127161520.jpg

DSCF1364_convert_20141127161603.jpg

DSCF1359_convert_20141127161634.jpg

DSCF1285_convert_20141127160841.jpg

野口雨情「白滝小唄」の碑。「赤い靴」「十五夜お月さん」などの作詞家として知られる野口雨情は昭和10年の秋、数回にわたって白滝を訪れ、この地にちなんだ十句を詠んだ。これに曲をつけた「白滝小唄」は白滝の町中で親しまれた。

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 日記
ジャンル : 学問・文化・芸術

「若衆宿では、毎晩、酒を飲むことになっていた」

獅子文六(昭和20年12月から2年近く、南予の旧岩松町に滞在)の小説『大番』(昭和31年2月~33年4月「週刊朝日」連載)に、南予地方の「若衆宿」の習俗についての記述がある。

この地方の習慣で、若衆宿あるいは青年宿と呼ぶ、一種の合宿制度がある。村の若者たちが、春になって、ある期間を、共に一軒の家で生活し、年長の若者が年下の者に農耕のこと、漁撈のことから、村の社会生活、人間生活の指導をする目的を、持っていた。少くとも、昔はそのようにして、少年が青年になる区切りを、つけたものらしく、若衆宿を出た者は、一人前の男と見られ、結婚の資格ありとされた。これに対して娘宿というものがあり、村の乙女たちが合宿して、家事や人生の指導を受けることになってる。尤も、兵営だの、女学校だのというものが始まってから、若衆宿も、娘宿も、必要性を失い、ことに昨今は、若い者たちの遊び場のようなことになってしまったが、因習の強い地方なので、制度だけは、辛うじて、続いているのである。そして、娘宿は女子十四歳、若衆宿は男子十六歳に達すると、宿入りの資格ができる。(『大番』「あるスパルタ教育」一)


『大番』では、主人公(南予の生まれという設定)も宿料を払ってこの「若衆宿」に入る。

それで、是非とも、宿が開かれたら、参加したいのだが、食費や電燈代なぞを含めて、一日分三十銭を、宿料に収めなければならない。物価の安いそのころでも、すいぶん安い値段だが、それは多少の金や米の寄付が、村人からあるからで、青年たちの負担を、軽くする用意だった。(同上)


「若衆宿」で青年たちは毎晩、酒を飲むのだがそれも社会勉強。

若衆宿では、毎晩、酒を飲むことになっていた。それは快楽のためではなく、勉強のためであった。酒を飲むということは、村の社会生活で、一つの必要なので、もう十六歳となったら、下稽古にかからねばならない。オサが、新入りの手をとって、教えるのである。だから、飲酒は、若衆宿の正課であるが、遊びの方は、菓子や、白米の飯を食うことだった。(『大番』「あるスパルタ教育」二)


「若衆宿」では社会生活を営むうえでのさまざまな事柄を先輩たちから学ぶ。

酒を飲んだり、菓子を食ったり、ある時は、自炊の汁かけ飯を食ったりするのは、いつも、夜だった。彼らは、夕方、若衆宿に集まって、朝、帰るのだが、各自持ち寄ったセンベイ布団に包(くる)まって、早く眠る者は、一人もなかった。夜更しこそ、若衆宿の特権のようなものだった。
そして、なにをして、夜を更すかといえば、談話である。昔は、農耕漁撈のコツということも、オサが話したらしい。今だって、村の長老や、村会議員の誰彼の勢力争いや、それに対する処世術のようなものを、オサが教えたりするけれど、大部分の話は、女のことになる。イロ話である。
ことによったら、これが、若衆宿の正課中の正課かも知れない。なぜといって、この荒ッぽい性教育だけは、村の人がチョン髷を結ってた頃から、今日まで、一貫して、変らないからである。(同上)


「若衆宿」とは要するに一人前の村人となるための社会教育機関であった。これはなにも南予地方だけにあったものではなく、日本各地の村落共同体に同様のものがあった。(次回ブログ記事につづく)

【参考文献】
獅子文六『大番(上)』小学館文庫 2010年4月

DSCF8094_convert_20140422094920.jpg

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード