伊予鉄道松山市駅-その駅名の変遷

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伊予鉄道松山市駅。明治21年(1888)の同鉄道開業(松山-三津口-三津)以来の歴史ある駅だが、この駅の名称は以下のように変遷している。

①明治21年(1888)10月28日、「松山」の駅名で開業。
②明治22年(1889)7月20日、「外側(とがわ)」に改称。
③明治35年(1902)6月1日、「松山」に改称。
④昭和2年(1927)3月1日、「松山市」に改称。現在に至る。

②の「外側」というのは城下東南部の通称。②と同時に「三津口」の駅名も「古町」に改称されているが、「古町」は城下西北部の通称であった(松山城下は藩政時代以来「外側」「古町」の二地域に大きく区分されていた)。

④の改称は国鉄の松山駅開設に伴うもので、伊予鉄道の社史にはその経緯が次のように記されている。

そのころすでに当社が「松山駅」という駅名を使っていた。だが国鉄にしてみれば、「松山駅」を名乗らない以上お話にならない。そこで当社に対して、松山駅改称運動を起こした。当社としても、国鉄以前の伝統と歴史において、絶対に改称できないと真っ向から反対し、国鉄には「伊予松山駅」とでもすればよいと進言したほどである。
国鉄は省線の面目にかけて「松山駅」を名乗らない以上は列車を走らせまいとばかり、地元の交渉から問題を中央に移して、当社の運輸課長を本省に招き折衝を重ねた。もちろん交渉は難航したが、しょせん“日の丸”には勝てないとみて、当社もついに腰を折り「松山市駅」と改称して「松山駅」を国鉄に譲ったわけである。(『伊予鉄道百年史』)


国鉄に譲歩しての駅名改称。隣県香川の四国水力電気屋島駅が屋島登山口駅に改称したのも同様のケースで、国鉄の威力にはやはり勝てなかったらしい。

【参考文献】
伊予鉄道株式会社(編集発行)『伊予鉄道百年史』1987年4月

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伊予鉄道社長・井上要と愛媛県知事・安藤謙介の対立

明治末年、愛媛県知事・安藤謙介は大規模な三津浜築港(港を近代化する大改修工事)を計画したが、これに猛反対したのが、伊予鉄道社長で進歩党議員の井上要であった。井上は『安藤知事横暴史』なる本まで出版して知事を攻撃、安藤は多数派の政友会を背景に計画をあくまで推進、二人の対立は激化し、中央の新聞にもそれが記事となるほどだった。

政友会は高浜を葬らうとしたが、進歩党は三津浜を葬らうとした。安藤の三津築港計画はすいぶん思ひきったことをやったもんだ。(中略)もちろん県会は、此の計画案を可決した。しかし進歩党は、へこまなかった。云ふまでもなく其の急先鋒は井上要であった。井上は、ここで、豺狼のような凄まじい活躍を見せた。それはまるで毒刃のごときものであった。三津浜築港の申請書が主務省に申達されると彼は直ちに不認可の蹶起運動を開始した。井上は「安藤知事横暴史」を出版し、之()れを宮内省、枢密院にまで持ち込んだ。さうして此の土木計画の無謀と、安藤知事の非を鳴らした。安藤と井上との一騎打が始まったのだ。彼らが上京すると東京の諸新聞は、彼ら二人の写真を掲載し「喧嘩する二人」と云ふような題目で、喧嘩のいきさつを書き立てた。三津浜町民の井上に対する憤慨の有様は物凄いものであった。井上が汽車で三津を通ると、彼らは石を投げつけ、罵り騒いだ。三津浜築港起工式が来た。町民の心は明るくうれしかった。それは祝福と栄光の日であった。彼らは安藤知事を礼讃した。彼らは政友会を謳歌した。そこで安藤知事の記念碑が出来た。それは礼讃と謳歌の結晶であった。街はむろん賑はった。ダンヂリが出た。笛、鐘、太鼓、仮装団が出た。おいらん道中もあった。町民は、歌ひ、舞ひ、踊った。井上はしかし憎まれた。ウンと憎まれた。おはなしにならぬくらいに憎まれた。(中略)此の狂熱的な歓喜が、タッタ一ヶ月ほどの後に於て、まるで、うたかたの夢のごとくに、あっさりと消えさらうとは、さすがの三津浜町民も、思ひ設けなかったであらう。為政者と、政党に頼るほど、はかないものはない。(『愛媛県政史』四「壮年期の愛媛県」)


二人の争いは、桂内閣による安藤の事実上の解任で終息、後任の知事によって三津浜の築港も取り止めとなった。安藤との争いに勝利した井上であったが、三津浜には反井上の感情がながくのこった。

▼ 井上要翁頌徳碑(梅津寺公園前)
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井上要がその創設に尽力した二番町の初代県立図書館前に建てられ、のち梅津寺の現在地に移された。

【参考文献】
沢本勝・阿部里雪(利行)『愛媛県政史(一九二六年版)』愛媛県政史刊行部 1926年1月

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明治の松山、伊予鉄の駅開設にともなう珍騒動

明治20年(1887)9月14日に開かれた伊予鉄道の創立総会で、路線は松山(湊町西端=福正寺前)-三津口(萱町六丁目)-三津(住吉端東詰)と決定。駅ができる松山湊町の商店主らは一様にこれを喜んだが、同町の反対方向である駅の西側の町筋に鉄道利用客の足が流れることを危惧して、駅の西面に堤防を築かねばならぬと断固取り決め、一時大きな問題となったという。

此線路の起点を湊町西端に決めて工事にかゝらうとする頃、湊町の人々は一喜一憂で乗客出入の中心を手近に引寄することゝなったのを喜ぶと共に其乗客が西方の各町に散るを憂ひ、四方開通、集散自由では大に町の繁栄を害するにより断然松山駅の西面に堤防を築かなければならぬと申合せ、大に問題となった。幸に夫()れは鈴木安職君等尽力によって漸く鎮静したけれども一時は中々の騒ぎであった。此一例を見てもその頃一般の鉄道に対する理解の程度と世相人心の如何なるものであったかを卜するに足るであらう。(井上要『伊予鉄電思ひ出はなし』第一「伊予鉄道の創業時代」二「第一回株主総会の思ひ出」)


堤防を築いて人の流れを止めるというのもおかしな発想だが、当時の湊町商店主らにとってはこれも真剣に考えてのことだったのだろう。伊予鉄道の開業以降、湊町・大街道が古町にかわって松山の商業機能の中心となったから、湊町商店主らがいだいた当初の危惧は結局杞憂に過ぎなかった。

【参考文献】
井上要『伊予鉄電思ひ出はなし』伊予鉄道電気株式会社社友会 1932年9月

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