明治29年4月11日、夏目漱石、松山を去る

明治29年(1896)4月11日-この日、夏目漱石が松山での1年間の教師生活を終えて、当地を出立、新任地の熊本に向かった。三津浜港を午前9時に出る船でひとまず広島に赴く(東京に帰る高浜虚子も広島まで同行)。三津浜港には松山中学校長の横地石太郎・上野義方(愚陀仏庵の家主)の孫娘宮本より江(11歳。結婚後久保姓)・村上霽月が来ていて、漱石を見送った。

より江は漱石がこの出立の前夜、湊町3丁目の向井書林で画譜を買ってくれたという。

松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春と応挙と常信の画譜は今でも持っております……。(高浜虚子宛ての久保より江の手紙)


霽月は漱石がこの出立のおり、鬱金木綿(うこんもめん)の袋に入れた大弓を携えていたと述べている。

君が熊本へ立つ時も鬱金木綿の袋に入れた大弓は自ら携へて汽船に乗るのを見送ったことを記憶する。(村上霽月「漱石君を偲ぶ」)


漱石は松山に来る1年ほど前より弓の稽古を始め、在松時代もその稽古に励んでいた。

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現在の三津浜港。明治の頃の汽船乗り場は三津3丁目4付近。埋め立てられて住宅街となっている。

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「きせんのりば」の標柱(三津1丁目)。明治の頃、三津浜港の汽船乗り場にはこの標柱が設置されていた。漱石もこれを目にしているはずである。

【参考文献】
霽月村上半太郎翁生誕百年祭実行委員会『霽月句文集』1978年11月
和田茂樹『子規の素顔』愛媛県文化振興財団1998年3月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫2002年8月

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明治28年4月9日、新任教師漱石、松山に到着

明治28年(1895)4月9日-120年前の今日にあたるこの日、夏目漱石が中学の新任教師として松山に到着,、三番町の「きどや旅館(城戸屋旅館)」に泊まり、友人の狩野亨吉に到着をしらせる手紙を書いた。

拝呈 迂生去る七日発今九日午後二時頃当市へ著仕候 右安著の御報まで 余は後便にて申上候 猶御用の御節は中学校宛にて郵書御差出(さしだし)被下度(くだされたく)願上(ねがいあげ)候
四月九日


漱石が勤務するのは愛媛県尋常中学校、通称松山中学。親友の正岡子規がかつて生徒として在籍(明治13年3月入学、16年6月退学)していた学校である。漱石の担当は英語、月俸80円という破格の待遇で、翌年4月まで同校に勤務する(明治29年4月9日離任、同11日新任地の熊本に出発)。

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「漱石ゆかりの松山中学校跡」碑(松山市一番町4丁目)。
愛媛県庁の向かい側、今のNTT西日本愛媛支店の所在地に松山中学があった。

【参考文献】
『漱石全集 第二十二巻 書簡上』岩波書店1996年3月

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子規・漱石二句一基の句碑(道後公園)

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ふゆ枯や鏡にうつる雲の影 子規
半鐘と並んで高き冬木哉 漱石


道後公園の子規記念博物館の前にある子規・漱石二句一基の句碑。

「ふゆ枯や~」は子規、明治28年(1895)冬の句。「半鐘と~」は明治29年1月3日の子規宅での句会で詠まれた漱石の句である。「半鐘と~」については漱石の『硝子戸の中』に言及があるので引用しておこう。

私の旧宅は今私の住んでゐる所から、四五町奥の馬場下といふ町にあった。町とは云ひ条、其実小さな宿場としか思はれない位、小供の時の私には、寂れ切って且淋しく見えた。(中略)其位不便な所でも火事の虞はあったものと見えて、矢張(やっぱり)町の曲り角に高い梯子が立ってゐた。さうして其上に古い半鐘も型の如く釣るしてあった。(中略)私が子規のまだ生きてゐるうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」といふ句を作ったのは、実は此半鐘の記念のためであった。(『硝子戸の中』十九・二十)



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正岡子規(左)・夏目漱石(右)

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明治28年9月12日、松山中学教師・夏目漱石病気早退

明治28年(1895)9月12日-松山中学の教務日誌の同日欄に

九月十二日 夏目教官十一時より病気欠勤


という記載(松岡譲『漱石先生』による)。松山中学教師・夏目漱石はこの日、病気のため早退したようである。同月上旬、漱石は子規、近藤我観ら十人ほどで高浜の延齢館に赴き、海水浴をしているが(子規のみ海に入らず)、9月になってからのこの海水浴で体調をくずしたのかもしれない。

松山中学の教務日誌には漱石関係の事項として他にも

(明治28年)
十二月十七日 夏目教官病気により第五時間早引
(明治29年)
一月十日 夏目教官病気欠勤
四月九日 本日午前九時より講堂に於て夏目教官告別式挙行


という記載(松岡譲・上記書)。29年4月9日の「告別式」というのは、松山中学離任に当たっての式典で、その翌々日、漱石は松山を出立、新任地熊本に向かった(→当ブログ2011年4月11日記事)。

【参考文献】
松岡譲『漱石先生』岩波書店 1934年11月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月

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『坊っちゃん』で非難される松山

夏目漱石の『坊っちゃん』には松山の悪口が頻出する。

県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くした位な道幅で町並はあれより落ちる。廿五万石の城下だって高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だ抔(など)と威張つてる人間は可愛想なものだと考へながらくると、いつしか山城屋の前に出た。広い様でも狭いものだ。(『坊っちゃん』二)

一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何も藝がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだらう。憐れな奴等だ。(中略)何でこんな狭苦しい鼻の先がつかへる様な所へ来たのかと思ふと情なくなつた。(『同』三)

田舎丈(だけ)あって秋がきても、気長に暑いもんだ。(『同』四)

夫(それ)にしても世の中は不思議なものだ。虫の好かない奴が親切で、気の合った友達が悪漢(わるもの)だなんて、人を馬鹿にして居る。大方田舎だから万事東京のさかに行くんだらう。物騒な所だ。(『同』六)

住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、僅か二銭違ひで上下の区別がつく。かう云ふおれでさへ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。尤も田舎者はけちだから、たった二銭の出入でも頗る苦になると見えて、大抵は下等へ乗る。(『同』七)

こんな卑劣な根性は封建時代から、養成した此土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教へてやったって、到底直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなくなるかも知れない。(中略)どうしても早く東京へ帰って清と一所になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来て居る様なものだ。(『同』十)

中学と師範とはどこの県下でも犬と猿の様に仲がわるいさうだ。なぜだかわからないが、丸で気風が合はない。何かあると喧嘩をする。大方狭い田舎で退屈だから、暇潰しにやる仕事なんだらう。(『同』十)

其夜おれと山嵐は此不浄な地を離れた。船が岸を去れば去る程いゝ心持ちがした。神戸から東京迄は直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出た様な気がした。(『同』十一)


これほどひどく書かれているのに、松山では『坊っちゃん』が喜ばれ、まちの誇りといった扱い。司馬遼太郎はこの点について次のように述べている。

漱石の『坊っちゃん』は(中略)名作ではありますが、ずいぶんと伊予松山の人をばかにした小説でもあります。しかし、松山の人はけっこう喜んでいますね。坊っちゃん列車とか、坊っちゃん団子とか、松山はなにかにつけて坊っちゃんです。自分たちがばかにされているのを喜ぶというのは、なかなかしたたかなユーモアの精神です。(中略)漱石の時代の江戸っ子は、田舎を実に嫌いました。(中略)洗練された人のセンスから滑稽を感じて、『坊っちゃん』を書いた。それを松山の人が喜んでいるのは、非常に高級な感じがします。(司馬遼太郎講演「松山の子規、東京の漱石」)


松山でこの小説が受けいれられている理由。丸谷才一は「日本史を縦断する都と鄙(ひな)という対比のせいだと論じたことがある」といい、「首都崇拝」が「伝統として刷込まれているから松山市民は坊っちゃんの軽蔑を気に病まなかった」と解していたが、「これで押切るのは無理」、「今度、わたしは別解を得た」と次のように述べている。

『坊っちゃん』では松山を拉し来(きた)って日本人の島国根性を非難している。識見の低さ、夜郎自大、洗練を欠く趣味、時代おくれを咎めるのに、日本の縮図として四国の一都市を用いたのだ。そんなふうに一国の代表として自分たちの町が選ばれ、その結果、名作が成ったことを松山の人々が光栄に感じているとすれば、その読解力は大いに評価しなければならない。(丸谷才一「『坊っちゃん』100年」)


さまざまに書かれている悪口は実は日本人全体を風刺したもの、松山はその日本の縮図として選ばれただけ……。松山の人がそう捉えているかどうかはともかく、作品の読み解きとしてはおもしろい。この丸谷説にしたがえば、『坊っちゃん』は時代批判の小説としての意義を持つということにもなる。

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【参考文献】
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月
『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録愛蔵版Ⅱ』朝日新聞社 1997年7月
丸谷才一『袖のボタン』朝日新聞社 2007年7月

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