東野お茶屋跡の虚子句碑

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ふるさとのこの松伐るな竹切るな 虚子


松山市東野4丁目・東野お茶屋跡(県指定史跡)にある高浜虚子の句碑。昭和33年(1958)5月建立。字は虚子の自筆。虚子の句集『七百五十句』「昭和二十六年」の部に「九月二十一日 東野を通る」として「秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ」の句とこの「ふるさとの」の句があるが、句集では「この松」は「此松」、「竹切るな」は「竹伐るな」となっている。

【参考文献】
『虚子五句集(下)』岩波文庫1996年10月

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春たけなわ

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春闌(たけなわ)暑しといふは勿体なし  高浜虚子(昭和13年5月1日)


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分け行けば躑躅(つつじ)の花粉袖にあり 同(昭和13年5月6日)


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春惜む命惜むに異(ことな)らず 同(昭和25年4月28日)



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高浜虚子、受勲を子規の墓前に報告する

参りたる墓は黙して語らざる


高浜虚子、昭和29年(1954)10月25日作の句。詞書には「十月二十五日 子規の墓に参る。」とあるだけだが、このときの墓参は、文化勲章を受章することになったということを亡き子規に報告するためのものだった。同年11月3日の文化勲章親授式当日、虚子は同句を引いて受章のよろこびを語っている。

子規の立派な仕事を続けたおかげです。「参りたる墓は黙して語らざる」これは子規の墓にお参りして受章を報告したとき子規はただ黙って聞いてくれたという心境です。(昭和29年11月3日付「朝日新聞」夕刊)


親授式当日、虚子は「十一月三日 宮中参内。文化勲章拝受。」の詞書で次の句を詠んだ。

我のみの菊日和(きくびより)とはゆめ思はじ


子規をはじめとする師友とこの栄誉を分かつべきであるとの思いが句に表されている。

虚子に文化勲章の授与が決まったときの新聞記事を引いておこう。

貫き通す主情主義 五十年もの間、虚子がこの国の俳壇を牛耳ってきたということは考えてみれば大変なことだ。その間、一日のごとく「花鳥諷詠」を説き、現俳壇の九割までが彼の門人によって占められているということも。
彼は、先生である子規の“写生”にその創作の土台をすえて、つらぬいてきた。いまの日本に、彼の「花鳥諷詠」をうけいれる十分な地盤がある以上、彼はやはり国民的な偉大な存在であることをやめないだろう。しかし彼の写生は、斎藤茂吉の”実相観入”という深いものにはならず、あくまで「技法」として彼の主情を支えているにとどまることを不満に感じている俳人も少なくない。
虚子はワンマンだといわれる。彼の自分を信ずる強さは類がない。あの戦争中でも、彼の高弟の草田男が特高にいじめ抜かれ、特高はこの草田男をおとりにして、虚子をくじこうとねらったときも「時がくれば分る」といって、陰に陽に草田男をかばい通し、時代に便乗しなかったといわれる。そういう強さも持っている。
現在は「ホトトギス」の経営も雑詠の選もみな長男の年尾氏にゆずって、表面は隠退したかたちだが長寿に恵まれ、不死身の強さで作句を怠らない。そして、とてつもない主情的な句をつくっては人をおどろかしたり、困らせたりしている。(昭和29年10月14日付「朝日新聞」)


子規は虚子の才能を早くから見抜いていたが、これほど大きな存在になるとまではさすがに予見し得なかったであろう。

【典拠文献】
高浜虚子『虚子五句集(下)』岩波文庫 1996年10月

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「笹啼が初音になりし頃のこと」

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松山にてホトトギス六百号記念会 極堂も席に在り
笹啼が初音になりし頃のこと 虚子


昭和21年(1946)11月、「ホトトギス」600号記念会が松山市末広町の正宗寺でおこなわれた。席上、同寺境内に虚子の句碑を建立することが決まり、後日送られて来たのが「笹啼が」の句である。「極堂も席に在り」-この記念会には「ホトトギス」の創刊者柳原極堂も招かれていた。虚子はこの席で「極堂の句碑もたのむぞな」と言って、参会者を感動させたという。「笹啼が」の句は「ホトトギス」の創刊当時を鶯の鳴きはじめに喩えたもの。句碑は正宗寺の子規堂前。

【参考文献】
松山市教育委員会編『俳句の里 松山』松山市役所 1994年4月

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「虚子」という号

高浜清は明治24年(1891)9月7日付、同22日付の子規宛ての手紙で、俳号を付けてもらいたいと子規に懇願している。

小生是迄南海漁史など号し居り候処、思へバ無粋極まる話しにして何かなと苦心仕り候へども格別の名号も発見せず、甚だ困り居り候処。賢兄若し何か小生に適当の名号あれバ御教示被下度是亦願入候也。
但し淋しき雅客然たるを好み候。(24年9月7日付)


兼て申上候小生俳名(すこしおっこうなれど)の儀何卒御ひまに御命名被下度重て願上候也。(同22日付)


この申し出を受けた子規だが、なかなかよい号が思い浮かばず、高浜清に自分でも考えてみるようにという。

御雅号之事度々被仰候へども小生もこれといふ思ひつき無之候得共何か大兄の御住所に付てつけらるゝか、又ハ大兄ノ尤好まるゝもの又ハ事にちなんでつけられてハ如何。猶心あたりも有之候ハヾ可申上候。(9月26日付・高浜清宛て子規書簡)


高浜清は「放子」という号を考え、子規に報告。子規はそれもよしとした上で、思いついた号があるという。清(きよし)の名にちなんだ「虚子」がそれであった。

放子の御雅名面白し面白し。実ハ小生先日一寸考へつきて
 虚子
といふのにてハ如何ぞやと御尋可申存居候処也。これハ君の名「清」の字にちなミたるものにて「虚子 きよし」といふ滑稽に御坐候。又意味より申し候とも清と虚とハ殆どシノニムとも云ふべきものかと存候。(10月20日付・同上)


高浜清はこの「虚子」を終生の俳号とする。

天の川のもとに天智天皇と虚子と 大正6年
初空や大悪人虚子の頭上に 同7年
虚子一人銀河と共に西へ行く 昭和24年
悴(かじか)みて高(こう)虚子先生八十一 同28年


その俳号を詠み込んだ虚子の句である。

【参考文献】
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻1(子規あての書簡)講談社 1977年3月
大岡信『子規・虚子』花神社 1989年9月
高浜虚子『虚子五句集(上)』岩波文庫 1996年9月
高浜虚子『虚子五句集(下)』岩波文庫 1996年10月

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