夏休み前の夏休み

吉田健一(1912-1977)の『東京の昔』に「夏休み前でも温度が三十度を越えると小学校が休校になった」との記述。昭和の初期頃のことだったらしいが、夏休み前でも気温が余りにも高くなると小学校は休校、当時はそうした措置がとられていたようである。

【参考文献】
吉田健一『東京の昔』ちくま学芸文庫2011年1月

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永井荷風の日記、「目下の日本人は甚だ幸福……」の記述

昨日の記事でふれた永井荷風の日記、昭和12年(1937)11月19日条。同日条にはまた次のような記述もある。

今秋より冬に至る女の風俗を見るに、髪はちぢらしたる断髪にリボンを結び、額際(ひたいぎわ)には少しく髪を下げたるもの多し。(中略)売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見るに新調の衣服を身につくるもの多し。東京の生活はいまだ甚だしく窮迫するに至らざるものと思はるるなり。戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚だ幸福なるものの如し。


このとき時代はすでに日中戦争下。軍国主義的な統制を強いる国民精神総動員運動も始まっているのだが、荷風には切迫した認識はなく、「目下の日本人は甚だ幸福……」。一般国民の感覚としても「まだそれほど……」であったのだろうが、歴史の目から見ると、流れはすでに耐乏生活を強いる時代へと突入していた。「まだそれほど……」とその時代の人には認識されていても、歴史は「もうすでに……」の次の段階に移っていたのである。

【参考文献】
永井荷風著・磯田光一編『適録 断腸亭日乗(下)』岩波文庫 1987年8月

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〔記事と画像は無関係〕

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「民衆は〈不幸な人々〉のことを深く気にかけている……」

ロシアの民衆は犯罪者のことを「不幸な人々」と呼んで同情を寄せていたとドストエフスキーはいう。

我々の社会の上流階層には知られていないことだが、ロシアでは商人も町人も農民もすべて、「不幸な人々」のことを深く気にかけているのだ。(ドストエフスキー『死の家の記録』)

民衆は、たとえ囚人の犯した罪がどれほど恐ろしいものであれ、決してその罪のことで囚人を責めようとはせず、囚人が負わされた罰に免じて、そしてそもそもその不幸に免じて、すべてを許そうとするのである。ロシア中どこへ行ってもすべての民衆が犯罪を不幸と呼び、犯罪者を不幸な人と呼ぶのは、理由があってのことなのだ。これは極めて意味深い定義である。それも無意識に、本能的にそう思っていることだけに、なおさら大事なのだ。(同上)


異常な犯罪が頻発する今の時代、「不幸な人々」などとはとても言っていられないかもしれないが、ドストエフスキーのいうロシア民衆のそうした心情も共感できないわけではない。

いとしい家族のためには恥も忘れ、盗みをもするのが人間だと兼好法師は言う。

まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。(卜部兼好『徒然草』第百四十二段)


犯罪の原因である貧困をなくすのが為政者のつとめだ、というようなことも兼好法師は述べている。

されば、盗人を縛め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑()ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒(つね)の産なき時は、恒の心なし。人窮まりて盗みす。世治まらずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。(同上)



昨日の記事でふれた「極楽橋」の伝説。重罪人の命が助けられると知って、人々が手をたたいて喜んだという当地方の言い伝え。事実であったかどうかはともかく、罪人を「不幸な人」と見なす心情がここからは窺える。犯罪はその多くが「不幸」なるがゆえと理解されていたからこそ、こうしたかたちの話となっているのではなかろうか。

【参考文献】
西尾実・安良岡康作校注『新訂 徒然草』岩波文庫 1985年1月
ドストエフスキー・望月哲男訳『死の家の記録』光文社古典新訳文庫 2013年2月

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江戸時代の士族の食生活

江戸時代の士族の食生活は極めて質素なものであったと旧松山藩士・内藤鳴雪(1847-1926)は述べている。

一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜とし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ヶ月に三日(さんじつ)といって、朔日十五日廿八日の祝い日に限り、膳に上ったもので、その他は「オタタ」(注-女性の魚行商人)の売りに来る白魚位を買った。食用にする醤油等も手作りであって、麦は邸へ肥取りに来る百姓から代価として持って来る。豆は馬の飼料という名義で馬の有無にかかわらず藩から貰うころが出来る。その麦を煎り、豆を煮たものへ、塩と水とを加え、大きな「こが」という桶に作り込み、その下へ口をつけて醤油を取る。糟(かす)もそのまま飯の菜に充るが、なお糠を混じて搗いて糠味噌と名付け、そのままにも喰ったが多くは味噌汁にした。これはちょっと淡泊なもので、野菜などを実に入れて食べるとなかなか甘かった。(『鳴雪自叙伝』六)


一汁一菜といった程度の文字通りの粗食。正岡子規(1867-1902)の家も士族であったが、食生活はやはり質素であったらしく、子規はのちにその粗食のせいもあってこんな虚弱な体になったと述べている。

東洋流の粗衣粗食論は久しきものにて小生なども幼時よりこの主義によりて育てられ候故、弱き体をいよいよ弱く致し候。もし初めよりごちそう主義を実行せしならば今日のごとくかいなき身とはなるまじきものをと存じ候。(正岡子規「消息」ホトトギス第3巻第3号 明治32年12月10日)


「ごちそう主義」とここでいっているのは粗食の弊害を知る子規の持論。その主張を一言でいえば、「牛をおたべなされ」ということであった。(次回につづく)

【参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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「水飯」

『源氏物語』「常夏」の巻に飯に水を注いで食べる「水飯(すいはん)」というのが登場する。

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川(注-桂川のこと)よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶし(注-川魚の一種)やうのもの、御前にて調じて参らす。例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。「さうざうしくねぶたかりつる、をりよくものしたまへるかな」とて、大御酒(おほみき)参り、氷水(ひみづ)召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。(『源氏物語』「常夏」)


飯に湯を注いで食べる「湯漬(ゆづけ)」が冬の食事であるのに対し、「水飯」は夏の食事。上の『源氏物語』の場合は氷室に保存していた氷を使っての「水飯」だから、貴族ならではの贅沢な食事ということになるのだが、今のわれわれからすればこれ以下はないと思えるほどの粗末な食事。食生活の変化というものがいかに大きいかということが実感させられる。

【参考文献】
石田穣二・清水好子校注『源氏物語(四)』新潮社 1979年2月

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