安倍能成、大街道の芝居小屋で子規・漱石を目撃する

安倍能成(1883-1966)は松山で開催された子規没後50周年記念式典の講演で、子規・漱石の二人を大街道の芝居小屋で目撃したことがあると語っている。安倍はその目撃を明治28年(1895年=漱石は同年4月より1年間松山中学の英語教師)の盛夏の頃ではなかったかと言っているが、実際には同年の10月6日であった(子規の『散策集』に「明治廿八年十月六日(中略)大街道の芝居小屋の前に立ちどまりて漱石てには狂言見んといふ立ちよれば~」とある)。当時、大街道の一番町側入口近くに新栄座という芝居小屋があり、子規・漱石が立ち寄ったときには、泉祐三郎一座の照葉(てりは)狂言が演じられていた。安倍は二階席にいて、そこから平土間の桟敷にいた子規・漱石の二人を目撃している(安倍はのちに漱石門下となる)。演じられていた照葉狂言とは、三味線入り囃子による庶民化された能楽の一種で、テニハ狂言ともいわれた。明治時代、林寿三郎の率いる一座がこれを演じて栄え、その弟子泉祐三郎らも今様能として演じたが、能楽の復興とともに衰退した。

新栄座は明治20年(1887)10月に完成した松山地方初の本格的劇場で、これの開設により付近一帯は繁華街へと変化した。砥部町出身の俳優、井上正夫(市駅前に胸像がある)が初舞台を踏んだのもこの新栄座である。子規の「東京松山比較表」では、新栄座は東京の歌舞伎座に対比されている(当ブログ09年9月1日記事参照)。大正末からは映画館となり、昭和32年(1957)まで営業がつづけられた。

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【参考文献】
子規五十年祭協賛会編『正岡子規 五十年祭記念』 1952年10月
『子規全集』第13巻(小説 紀行) 講談社 1976年9月
『子規全集』第22巻(年譜 資料) 講談社 1978年10月
『愛媛県百科大事典』上巻(「新栄座」の項) 愛媛新聞社 1985年6月
『国史大辞典』第9巻(「照葉狂言」の項) 吉川弘文館 1988年8月

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安倍能成、「アンバイヨクナルさん」といわれる

夏目漱石の修善寺の大患の時のエピソード、安倍能成(あべよししげ)が「アンバイ(安倍)ヨクナル(能成)さん」といわれたという有名な話。安倍本人が講演会の席上で語っているので、引用しておこう。

夏目漱石が明治四十三年伊豆の修善寺で急に重態に陥った時、私は偶然沼津に居ましたので、電報を見たその翌朝誰よりも早くかけつけました。その時漱石夫人が、アンバイヨクナルさんが一番先に来たからこれはきっとよくなると縁起をかついだということがありました。


安倍能成は漱石門下の一人。上引は子規没後五十周年記念式典での安倍の講演内容である(講題「人間としての子規」)。「あんばいがよい(わるい)」という言い方も昨今はあまり耳にしなくなった。

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【典拠文献】
子規五十年祭協賛会編『正岡子規 五十年祭記念』 1952年10月

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安倍能成

昨日のブログ記事で紹介した正宗寺の水野広徳の歌碑には、「後輩」として安倍能成(1883-1966)の名が記されていた。安倍能成は松山出身の哲学者。現在の哲学界の最長老の一人、今道友信(1922生)は学生時代に聞いた安倍能成の次のような言葉が今も心の襞に残っているという(今道友信『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』)。

哲学を勉強するのなら、次の二つのことをよく心に残しておきなさい。思想は国家で終わるものではない。また、偉大な哲学者は必ず宗教的な憧れを持ち続けている。この二つを君は忘れないように。


「思想は国家で~」はマルクス主義やナショナリズムを批判したもの、「偉大な哲学者は必ず~」は宗教哲学の構築を期待するものであろうか。安倍の哲学観の根底に何があるかを窺わせるような言葉である。

安倍能成は小唐人町、現在の大街道の生まれであるが、かれの伯父(おそらく母方)に当たる人の家は往時、三津浜にあった。安倍は6歳の頃、その伯父の家に行ったことがあり、そのときの思い出を「港の家」と題するエッセーの中で語っている。下に同エッセーの文章を少しばかり引用しておくことにしよう。

伯父は朝市を見せてやらうといって自分を連れ出した。家を出ると直ぐ向うの方に黒い門があった。それは学校であった。朝市のある処は浜の一寸した広場であったかと思ふ。虚無僧のやうに深い編笠を被った男が五六人、高い踏台の如き物の上へあがって、帳面を拡げて頻りにそれを読み上げて居た。そのぐるりには沢山の魚が所狭いまでに並べられて、その間を多くの魚売があちこちと世話しさうに往来しながら、編笠の方を向いて凄じく怒号して居るやうであった。投げ棄てられたやうにそこいらにある魚は皆生きてぴんぴんとはねて居た。砂にまみれた中から怒ったやうに眼を尖して居る妙な形の魚もあった。一人の魚売女が、四尺もあったらうと思はれる大きなこちを、うんうんと息はづみながらかついで来て、ドッコイショと懸声をして砂の上に肩をはづすと、その魚はドシンとそこへ落ちた。
伯父は自分をそこから埠頭場の方へつれて行ってくれた。埠頭場の出鼻から少し向うの方にある大きな船を指して、「あれが蒸気船ぢゃ」と伯父は言った。黒い船の舳の方には、青い色で竜か何かが描かれて居た。船の手摺の所から大きな声でこちらを呼んでる人が、何だか自分等と別な国の人間か何かのやうに思へた。



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【参考文献】
『安倍能成選集』第1巻 日本図書センター 1997年9月
今道友信『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』中央公論新社 2000年2月

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