水野広徳の歌

日米非戦、平和主義を唱えた海軍大佐、水野広徳(1875-1945 三津浜出身)が詠んだ歌。

時局偶詠
米もなく炭も亦なく餓へ凍ゆ之をしも是れ聖戦とやいふ
国民を餓へ凍らしておとど等は夜々の宴に舌鼓打つ
薬まで軍の用とて徴発し不自由知らぬは軍人ばかり
民の口縛つて物を言はしめず我が世と意張る官僚軍閥
口にこそ言はねど民は悪(にく)むかな非常時局に上厚下薄
騒がしき国民精神総動員破れ太鼓に民は踊らず

まつり事からくり聞けば腹立たし民はいつ迄無知にはあらず
国のため能くぞ死んだは世の手前胸に沸き立つ涙を手向け
正しくば千万人も恐れずと思ひし頃は我れ若かりき
定めなき昨是今非の人の世は知己を待たなん百年の後
斯かる世は惜しみなけれど今更に首も吊られず腹も切られず
人生は何が何やら夢うつゝ唯恋のみぞ楽しかりける

甲は曰ふ
軍閥のあまりの暴慢見る時は戦へよ而して敗れよとさへ思ふ
乙は曰ふ
軍閥の暴慢如何に烈しきも国敗れよと我は思はじ
僕は曰ふ
甲と乙是非は言はねど軍閥の驕れる国は必ず破る

時感
戦へば必ず勝つと己惚(うぬぼ)れていくさを好む軍(いくさ)びとあり
真相(わけ)知らぬ民をおだてゝ戦ひの淵に追ひ込む野心家もあり
我が力かへり見もせでひたすらに強き言葉を民はよろこぶ
戦へば必ず四面楚歌の声三千年の歴史あはれ亡びん
戦にて敗れし後の泣面を我は見にけり独逸(ドイツ)の民に
侵略の夢を追ひつゝ敗独の轍踏まんとす民あはれなり
力もて取りたるものは力もて取らるゝものと知るや知らずや

国守る勤め忘れて軍人が政治を弄し国ついに敗る
ふりつもる雪に小笹は撓むともなほ起き上がる力を見よや
はりつむる氷の底にも魚はすむやがて解け行く春を待ちつつ
世にこびず人におもねらず我はわが正しと思ふ道を進まん


軍部に対する強烈な批判。軍の内部にいた人だけにその舌鋒は鋭い。慨(うれた)みの声とでもいうべきであろうか、ここには歌としての巧拙を超えたものがあるように思われる。

【典拠文献・参考文献】
『水野広徳著作集』第7巻(評論Ⅳ 日記・書簡)雄山閣出版 1995年7月

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秋山兄弟―「兄は将たるの大器、弟はどこまでも帷幄の謀将なり」

水野広徳(軍事評論家)の日記、昭和14年(1939)11月15日条に、秋山好古、真之兄弟の人物評を記した次のような文言がある。

先キニ兄好古大将ノ伝記ヲ編纂シ、今又弟真之中将ノ伝ヲ改編シ、兄弟ノ人物ニ就ヒテ多少観ル所アリ。兄ハ茫漠タル裡ニ要領ヲ失ハズ、弟ハ磊落ナルガ如クニシテ過敏ナリ。兄ハ将ニ将タルノ大器ヲ有スルモ弟ハ何処マデモ帷幄ノ謀将ナリ。兄ハ広ク社会ヲ見ルノ明アルモ弟ハ無思想ナル一介ノ武弁ヲ出デズ。但シ軍界ノ傑物タルヲ失ハズ。今回仔細ニ秋山真之ヲ研究シテ彼ニ対スル認識ヲ新タニス。彼ノ文章ニ至リテハ雄渾簡潔独特ノ風格ヲ有ス。


秋山兄弟の個性の違いを鋭くついた適確な評といえるのではなかろうか。水野は秋山兄弟の公式の伝記の事実上の執筆者で、真之の伝記の改訂を終えたその日に上引の評を自身の日記に書き付けたのであった。水野にとって秋山真之は海軍の先輩にあたる人であるが、水野は必ずしも真之に心酔していたわけではなかったようで、日記の同日条には、「終日秋山真之伝改訂、漸ク一先ヅ終了ス。ヤレヤレ我レ秋山ニ何ノ義理アリテ斯カル面白クモナキ仕事ヲ引受ケタル? 要スルニ意志薄弱ニシテ当初拒絶セザリシニ由ル。再ビ斯カル愚ヲ繰リ返スベカラズ」との文言がみえる。

【典拠文献・参考文献】
『水野広徳著作集』第7巻(評論Ⅳ 日記・書簡)雄山閣出版 1995年7月

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水野広徳の歌碑

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子規堂があることで有名な正宗寺(松山市末広町)の境内に、水野広徳(11月1日ブログ記事参照)の歌碑がある。碑表上段には、

世にこびず人におもねらず
我はわが正しと思ふ道を進まむ
       水野廣徳歌 後輩安倍能成書


とあり、碑表下段には、

水野廣徳先生は一八七五年三津浜に生れ
少壮海軍に志し日露戦争には水雷艇長と
して殊功あり戦後「此一戦」等を著して
名声一世に鳴る第一次世界大戦後欧洲の
戦跡を訪ねて戦争の惨禍を痛感し剣を投
じて敢然平和主義に転ず日米戦争論起る
に及び之を反撃してやまず然れどもその
高論も世と相容れず遂に太平洋戦争起る
悶々悲憤の情は僅に詩歌によりて慰むる
の他なかりき終戦直後の一九四五年十月
十八日大島の疎開地にて病没す
一九五七年十一月 後学松下芳男建之
賛助 野村吉三郎 安倍能成 小林躋造
    二荒芳徳 片山哲 高橋龍太郎


とある。碑表上段の水野の歌は銘にあるように安倍能成の書。安倍能成(1883-1966)は松山小唐人町(大街道2丁目)生の哲学者。文部大臣、学習院院長を歴任した。碑表下段の撰文は松下芳男(1892-1983)。新潟県生の軍制史研究家で、水野を師と仰いだ。以下、賛助として名を記す人物-野村吉三郎(1877-1964)、和歌山県生、海軍大将、駐米大使として開戦直前まで日米交渉に従事。小林躋造(1877-1962)、広島県生、海軍大将、小磯内閣の国務大臣。二荒芳徳(1886-1967)、愛媛県生、貴族院議員、宮内省書記官兼宮内参事官。片山哲(1887-1978)、和歌山県生、第46代内閣総理大臣。高橋龍太郎(1875-1967)、愛媛県喜多郡内ノ子村(現・内子町)生、日本商工会議所会頭、国産ビールの改良に貢献、ビール王と呼ばれる。水野の歌碑に名を連ねるこれらの人物はいずれも水野の平和思想の共鳴者であったようである。

【参考文献】
『愛媛県紳士録』愛媛新報株式会社 1934年5月
『国史大辞典』第5巻(「小林躋造」の項) 吉川弘文館 1985年2月
『国史大辞典』第11巻(「野村吉三郎」の項) 吉川弘文館 1990年9月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 人物』 1989年2月
「えひめの偉人伝43」(愛媛新聞2001年5月1日)
『日本人名大辞典』講談社 2001年12月

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水野広徳

好評を得ているという加藤陽子(日本近代史)の新著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に、水野広徳(みずのひろのり 1875-1945)についての言及がある。水野広徳は三津浜出身の海軍大佐で、軍事評論家。軍人でありながら平和思想を説き、日米非戦を主張した。加藤陽子のその新著では、水野について「国家の安全とはなにかというところまで深く考えた人」と述べ、その主張を

日本はそもそも戦争ができない国である。日本は国家の重要物資の八割を外国に依存している国なのだから、国家としての生命は通商関係の維持にある。通商の維持などは、日本が国際的非理不法を行わなければ守られるものである。現代の戦争は必ず持久戦、経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない生糸である点で、日本は致命的な弱点を負っている。よって日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない。ということは、日本は戦争する資格がない。水野広徳「無産階級と国防問題」(1929年)の要旨


と簡潔に紹介して、高く評価している。水野広徳については、猪瀬直樹の著『黒船の世紀』でも紹介され、2008年2月放送のNHKの番組《その時歴史は動いた》〈軍服を脱いだジャーナリスト 水野広徳の残したメッセージ〉でも紹介されたことがあった。以前にはあまり知られることのなかった水野広徳の名も、このところ徐々にではあるが一般に知られてきつつあるようである。

【参考文献】
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 2009年7月

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