秋山真之、元気のない正月

明治29年(1896)1月初め、秋山真之が子規のもとを訪問。秋山が訪れたのは3年ぶりで半日閑談したのだが、このときの秋山はあまり元気がなかったと子規は述べている。

秋山、この正月三年ぶりにて尋ね来たり、半日ばかり閑談致し候。(中略)秋山も強情ものなれば後来、何かやらかすべしとは存じ候へども、この正月逢ひたる時、あまり元気なきやう見受けし故、如何やと心配致し居り候。(明治29年8月28日付・井林博政宛て子規書簡)


前年の11月18日、秋山は日清戦争の功により勲六等単光旭日章を受章。軍人としては栄誉であったはずで、気力充実の正月を迎えていたとしてもおかしくはないのだが、子規を心配させるほどの元気がない様子。日清戦争での戦場体験で何か思うところがあったのかもしれない。

「秋山も強情ものなれば後来、何かやらかすべしとは存じ候へども」-秋山は将来、何か大きな仕事をするというのが子規のかたく信ずるところであった。「天下の英雄は秋山と自分のみ」というような意識も子規にはあったようである。

「秋山は早晩何かやるわい」といふ事は子規君の深く信じて居られた事で、大きくいへば天下の英雄は吾子と余のみ、といったやうな心地もほの見えて居った。(高浜虚子「正岡子規と秋山参謀」)


子規の表現によれば秋山真之は「剛友」(『筆まかせ』第一編・明治二十二年の部「交際」)。強き友であっただけに、その元気のなさは子規をとりわけ心配させたのであった。

【参考文献】
秋山真之会編『秋山真之』1933年2月
『子規全集 第十巻 初期随筆』講談社 1975年5月
『子規全集 第十九巻 書簡二』講談社 1978年1月

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山下亀三郎「秋山真之参謀の最期」

秋山真之は山下亀三郎の小田原の別荘に滞在中、虫垂炎に腹膜炎を併発して急逝した(大正7年〈1918〉2月4日)。山下亀三郎は山下汽船の創業者、秋山の親友である。秋山の死を自身の別荘で看取った山下は、後年「秋山真之参謀の最期」という一文を草し、その死の模様について語っている。以下、その文章の一部。

天気晴朗にして波高し、舷々相摩し戦機決すとの戦況報告が、連合艦隊秋山参謀の名文たることは世間に知られた事実だが、その秋山真之は大正七年二月四日、我が小田原の対潮閣に滞留中病を得て斃れた。私はその同窓の森山慶三郎、佐藤鉄太郎と云ふ海軍中将等と共に、遺骸を守って東京に帰ったことを今も忘れて居らぬが、この秋山とは、私の近親古谷久綱を通じて、大尉時代に赤坂の三河屋で呑んだのが始まりで、彼の最後まで、真に兄弟以上の交はりをして居った。
私は俗人だから、役人をして居る友人を呼び捨てにすることなどなく、君とも言はず、さんと云ふのが私の本領だが、秋山だけは君を飛び離れて互に呼び捨てゞあった。(中略)
秋山の人物を批評するのは私の柄でないと思ふから一切言はないが、対潮閣の二階の病床で、その最期に至り、大声を発して我国の将来を語り、「我死して我国をどうする」と云った言が今も耳に響いて居る。
恰度その時に、後に大将で男爵になって死んだ白川義則氏が、人事局長か何かで少将だったと思ふが、隣室に控へて聞いて居った。その白川君も既に亡くなったから、それを聞いた者はもう私一人だ。さうして、そのあとで又眼を開いて、「山下、何も頼むことはないが、子供のことをね」と言ったから、「そんなことは安心しとれ」と言ったのが最後だった。今は、その形見の兄の方は山下汽船会社に、弟の方は浦賀船渠会社に働いて居る。(「秋山真之参謀の最期」昭和15年7月3日)


「我死して我国をどうする」――秋山真之は日本の将来を危惧しつつ世を去った。その公式の伝記にも臨終の場で、「今日の情態のまゝに推移したならば我国の前途は実に深憂すべき状態に陥るであらう。総ての点に於て行詰を生じ恐るべき国難に遭遇せなければならないであらう。俺はもう死ぬが、俺に代って誰が今後の日本を救ふか」と語った旨が記されている。日本の中国進出が拡大しつつあった時代、このままでは欧米列強との戦争になると秋山は予見していたのであろうか。

【典拠文献・参考文献】
山下亀三郎『沈みつ浮きつ[地]』山下秘書部 1943年
秋山真之会編著『秋山真之』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1933年刊)

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松山城・筒井門下の石垣

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松山城・筒井門下の石垣。
真偽のほどは定かではないが、秋山真之が子どものころ、ここを登ったという。

秋山真之は、淳五郎。父久敬の五男として、明治元年三月二十日松山市歩行町で生まれた。(中略)少年時代のジュンさんは、負けん気の餓鬼大将として多くの逸話がある。松山城筒井門下の石垣をただ一人よじ登った。短いカシの棒を突っこんで登り切った才気と豪胆さに少年たちも舌をまいた。(和田茂樹編『子規と周辺の人々』)


そのせいではなかろうが、ここには下のような標示がある。
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【参考文献】
和田茂樹編『子規と周辺の人々』(増補版)愛媛文化双書刊行会 1993年9月

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正岡子規、秋山真之-学生時代の寄席通い

正岡子規、秋山真之、柳原正之(極堂)らは学生時代、連れ立って盛んに寄席通いをしたが、率先して「寄席に行こう」と言っていたのは秋山真之だったようである。以下、当時のことについての柳原正之の証言。

晩飯の箸を置くと「さあ行かう」といひだすのは秋山だった。行かうといふ所は寄席だった。小川町には小川亭といふのがあった。万世橋のところには白梅といふのがあった。其他にもいろいろの寄席があったが、小川亭がいちばん近いのでよく小川亭に出かけた。其のころは大きな下足札を呉れてゐた。
今は寄席も落語も凋落してゐるが其のころはまだなかなか盛んな時代であった。落語家にも宜いのがゐた。併し何時だって前座にはまづいのがゐるに定まってゐる。すると秋山が、みんなの下足札を集めて「ダメダメ」なんて怒鳴りながら其の下足札をバチバチ打鳴らして叩きおろしてしまった。後には正岡も秋山の尻馬に飛び乗って「ダメダメ」なんて下足札を頻りに鳴らした。書生時代だから面白半分にやったのだ。
其のころ十八九位の都(みやこ)といふちょっと可愛いゝ娘がゐた。小川亭や白梅にしょっちゅう出てゐた。母親らしいのが三味を弾いて、其の娘が長唄をうたってゐた。そして長唄が終ると腰だけちょっと上げて、膝だけで踊ったが、それが可愛いゝので評判だったし、書生仲間の噂の中心になってゐた。其のころ人気のあった落語家の今輔なども、此の膝だけの踊をよくやってゐた。秋山も正岡も、都が出るといふとよく出かけて行った。
秋山が浄瑠璃本を頻りに読みだしたのも此のころだった。当時の寄席では娘義太夫が盛んであったし、義太夫を聞くには、浄瑠璃本を読んでゐなければわからないので、自然と近松ものなどを読むやうになった。(「寄席」)


子規、真之は娘義太夫の都(みやこ)のファンだったようである。こうした寄席通いの日々……勉強はどうしていたのかといえば、子規はともかく秋山真之のほうは、寄席から帰るとすぐ勉強にとりかかっていたという。以下も柳原正之の証言。

寄席へ行った晩でも、秋山は下宿に帰るとすぐに勉強にとりかゝった。徹夜をやる事もしばしばだった。正岡も敗け嫌いだったので「俺もやる」といって徹夜の競争をやった。だが残念ながら正岡は秋山よりも体力が弱かった為めか、よく机に凭れたまゝで眠ってしまった。(「子規の影法師」)


子規、真之が勉強の「徹夜の競争」をしていたことについては、当ブログ2010年12月1日記事も参照していただきたい。→http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-455.html

【典拠文献・参考文献】
秋山真之会編著『秋山真之』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1933年刊)

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秋山真之、少年時代の花火事件

秋山真之は子どものころ、親友・桜井真清(のちの海軍少将)らと花火をつくって打ちあげ、巡査に捕まるという事件を起こしたことがある。真之の公式の伝記はこの事件のことを次のように記している。

真之将軍が十四五、桜井真清少将は八歳位の時だった。桜井氏の家に岩戸流、宇佐美流の煙火伝書といふ煙火の調合を書いた書物があった。桜井氏の厳父が筆写したものであったが、夫(そ)れを桜井氏の令兄瀞氏や真之将軍が発見した。直径二三寸位の花火筒もあった。
「やらうか」
「やらう」
といふので早速煙火の製造に著手した。花火殻の外側に何回も紙を貼った。真之将軍は薬を何匁宛か量って夫れを薬研でおろして調合した。近くの野原へそれを持って行って揚げるとドーンと凄じい音がして開いた。将軍や桜井氏たちはそれが面白くて堪らなくなった。(中略)
煙火はさうして将軍や子供達の興味を煽ったが、勿論それは子供の領分のものではないし大人がやるにしても警察の取締法があって、人家から幾らか離れた箇所でなければ打揚げる事は出来ないといふやうな事になってゐた。夫れに大きな音響を伴ふものなのだから巡査に発見される事も早かった。当時の巡査は此頃の巡査のやうに民衆的ではなかったから、ズドーンと音響が発すると飛んで来て「こらあっ」と子供達を追っかけた。(中略)
真之将軍は持前の戦術的の智嚢を此頃から発揮した。将軍は其の部下の者たちに夫々(それぞれ)の役割を与へた。
「逃げる時、誰は何を持って逃げろ」
と命令した。桜井氏は火薬箱を持って逃げる役割を命ぜられた。
「若し巡査が追っかけて来たら、之(こ)れを牛蒡畑へ投込んで、身軽になって一生懸命に逃げろ」
といふんだった。牛蒡畑は葉が大きいから物を隠匿するのに恰好の場所であった。
いよいよ花火を打揚げる時には、将軍は此の忠実なる部下達を率ゐて野原に行った。巡査を警戒すべき者には其の部署につかせ、其他直接煙火打揚に必要なる助手には夫れを手伝はせ、相変らず花火を打揚げた。策戦としては実に上出来なものではあったが、併し巡査に捕はれた。(中略)
巡査は将軍や桜井氏をつれて桜井氏の家にやって来たが、其時の真之将軍の巡査に対する答弁が実にテキパキしたものだった。
「私は花火を見に行ってゐたまでゞす」
「見に行ってゐた者なら逃げなくっても宜いではないか」
「巡査が追っかけて来るから逃げたんです」
「逃げるのは自分がやってゐたからだらう」
「私がやってゐたといふ証拠がありますか」
たとへ牛蒡畑から火薬を探し出して来たとした所で、夫れが真之将軍が打揚げてゐたといふ証拠にはならないので、真之将軍は此の証拠で最後まで「自分がやったのではない」と頑張り通した。此の結末は、巡査が桜井氏の厳父に
「よく子供さんに説諭しておいて下さい」
「はい。よくいって聞かせておきます」
といふので解決した。


司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも上引の記述をもとにこの事件のことが描かれているが(文春文庫新装版1巻86頁以下)、同小説では事件の結末が次のようになっている。

警官が秋山家を訪ね、厳重に説諭するよう申し入れた。
「私も死にます。おまえもこれで胸を突いてお死に」
と、平素おとなしい母親が短刀をつきつけて真之を叱ったのは、このときである。


これは司馬遼太郎による事実の改変で、真之の母親がこう言って叱ったのは、花火事件の時ではなかった。公式の伝記には次のようにある。

其のころの喧嘩は石投げや、竹切れ木切れなどを手に手に持って突貫したりする喧嘩様式だった。其の士族の方の餓鬼大将が真之将軍で、桜井真清少将などは年少で其の部下だった。そんな事からよく相手の子供を泣かしたし、其の度毎(たびごと)に相手の子供の親たちから抗議を持ち込まれ、いつも貞子刀自がお侘をしなければならなかった。
或時、母堂は真之将軍を膝下に招いて、突如短刀を突きつけた。
「お母さんも是れで死ぬからお前もお死に」
いたずらを通り越し乱暴に近かった餓鬼大将の将軍も、さうした思ひ切った訓戒を母堂から受けたことがあった。流石(さすが)の将軍にとっても母堂はおっかない人だった。


母親が短刀をつきつけて叱ったのは真之が喧嘩を繰り返したからであった。司馬遼太郎はこれを花火事件の結末とした方が小説としては面白くなると判断し、伝記上の事実を改めたのであろう。

【典拠文献・参考文献】
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版) 1999年1月
秋山真之会編著『秋山真之』(復刻版)マツノ書店 2009年4月(原本1933年刊)

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