「にわか雨」「驟雨」「肘笠雨」

「にわか雨」-漢語では「驟雨」であろうか。「驟」は「はやい。かけ足で、物事のテンポが急であるさま」。『源氏物語』では、にわか雨のことを「肘笠雨(ひぢかさあめ)」といっている。

肘笠雨とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。〈肘笠雨とかいうものが降ってきて、とてもじっとしていられないので、皆お帰りになろうとしても、笠をさす暇もない。〉(『源氏物語』「須磨」)


「肘笠雨」は、肘(ひじ)を頭の上にかざして笠のかわりとする以外にしのぎようがない雨という意。にわか雨に遭遇した人のさまをとらえたおもしろい言葉である。

【典拠文献・参考文献】
石田穣二・清水好子校注『源氏物語 二』新潮日本古典文学集成 1977年7月

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正岡子規「華盛頓」

「華盛頓」はワシントン。アメリカの初代大統領ワシントン(1732-1799)の漢字表記である。子規は数え年16歳の時に「華盛頓」と題する漢詩を作った。

  華盛頓
果看草莽起英雄
焦思砕心百戦中
血雨剣花春爛漫
中含天地自由風

  華盛頓(ワシントン)
果たして看る 草莽より 英雄起こるを
焦思砕心 百戦の中
血雨剣花 春爛漫
中に含む 天地自由の風


「天地自由の風」-明治以降、「自由」はlibertyやfreedomの訳語として用いられた。子規のこの詩でも無論その意だが、「自由」という語は古くは「わがまま」「好き勝手」「勝手気まま」といった意味であった。

この僧都、見目よく力強く、大食にて、能書、学匠、弁説人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世をかろく思ひたる曲者(くせもの)にて、よろづ自由にして、大方、人にしたがふといふ事なし。(『徒然草』第六十段)


「この僧都(盛親僧都)は容貌がよくて力が強く、健康で大食、書の名手であり、学者であり、弁舌さわやかな点でも人にすぐれて、宗(真言宗)の中でも立派な僧であるから、寺(仁和寺)の中でも重く見られていたけれども、世俗のことを何とも思っていない変わり者で、万事勝手気ままで、いっこう世間普通の人のとおりにするということがない」。
気ままなふるまい、身勝手なふるまい、「自由」はそれを非難する意を込めてつかわれる語だったのである。

【典拠文献】
『子規全集』第8巻(漢詩 新体詩)講談社 1976年7月
松尾聡『徒然草全釈』(新装改訂版)清水書院 1989年3月

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
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「弁当」の語源

「弁当」の語源は「面桶(メンツウ)」であるという説が江戸の後期ごろからあって、民俗学者の宮本常一もその説で「弁当」の語の由来を述べている。

なお家の外でとる食事をベントウといいますが、これはメンツウからきたことばのようです。面桶と書きます。曲物の桶で、一人まえずつの食事をいれて、野外で食事するときこれでたべたのですが、室町時代の終わりごろ、武士たちが戦場へ出て戦うとき、面桶に食物をいれて持っていきました。それがなまってベントウといわれるようになり、字も弁当という当て字が多く用いられて、今日にいたったのでした。(宮本常一『食生活雑考』)


「面桶」は檜・杉などの薄板を曲げて作った楕円形の器。古くは道元の『正法眼蔵』などにその語の用例[注]があるが、この「メンツウ」が「ベントウ」に変化したというのはどうも無理があるようである。『日本国語大辞典』によると、「弁当」の語源は中国の南宋ごろの俗語「便当」に求めることができるそうで、もとのその「便当」とは「便利なこと」という意。便利なこと→便利なもの→携行食という意味の変化で、今の弁当の意が生じたという(「弁」は「便」の当て字)。「弁当」の語源に関してはこの「便当」説が妥当なようである。

[注]-『正法眼蔵』「洗面」に「面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく」等とある(岩波文庫本『正法眼蔵(三)』123頁)。岩波文庫本の脚注では「面桶」は「洗面のためのおけ」。

【典拠文献・参考文献】
『宮本常一著作集』第24巻 未来社 1977年3月
道元著・水野弥穂子校注『正法眼蔵(三)』岩波文庫 1991年7月
『日本国語大辞典 第二版』第11巻(「弁当」の項)小学館 2001年11月

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テーマ : 歴史
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返事の語

「はい」という返事が一般化したのは明治20年頃なのであろうか。正岡子規(1867-1902)の青年時代の随筆には次のようにある。

松山にては丁寧なる返事は「ヘイ」のみなりしが「ハイ」といふ返事は殆ど普通になれり。「言語の変遷」(『筆まかせ』第二編明治二十三年)


「はい」以前の返事の語は「へい」。他に「あい」という返事の語もあったようで、伊勢貞丈(1717-1784)の『貞丈雑記』には、

人のよぶ時は、いらえ〈いらえとは、へんじを云うなり〉する事、今は「あい」と云い、又は「へい」などと云う。


とある。古語辞典によると、「あい」は女性言葉であったようである。

『貞丈雑記』には上記一文につづいて次のようにある。

古は、左様にはいわざるなり。猿楽の狂言に、大名などが「太郎冠者」とよべば、「はあ」といらえを云うなり。これは、東山殿の時代の風俗を今に伝えたるなり。又『三儀一統』に云う、「人をめすいらへは、男は〈よ〉といらへ、女は〈を〉といらへ申也」とあり。又『めのとの草紙』に云う、「人のいらへの事は、上・中・下に女房三ツある物にて候。親・主のいらへは〈を〉と申。傍輩立あふなかは〈や〉とこたへ候。めしつかふものなどへは〈ゑい〉とこたへ候云々」。


「よ」「を」「や」……古くは種々の返事の語があった。

『源氏物語』には「を」「をを」といった返事の語が見出される。

「いづら、この近江の君、こなたに」と召せば、「を」と、いとけざやかに聞こえて、出で来たり。(「行幸」)

かくのたまへば、うれしきにも涙の落つるをはづかしと思ひて、「をを」と荒らかに聞こえゐたり。(「夢浮橋」)


注によると、「を」は女性の応答の言葉、「をを」は目上に対して応諾の旨を答える言葉であったようである。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆) 講談社 1975年5月
石田穣二 清水好子校注『源氏物語 四』新潮日本古典集成 1979年2月
石田穣二 清水好子校注『源氏物語 八』新潮日本古典集成 1985年4月
伊勢貞丈島田勇雄校注『貞丈雑記4』平凡社東洋文庫 1986年2月

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「ぐずついた天気」

松山地方、本日(4月21日)も夜からは雨という予報で、このところぐずついた天気がつづいている。天気がぐずつく……「ぐずつく」は本来、にぶい態度、動作などをすることであるから、天気に対して「ぐずついた」というのは、考えてみればおかしな表現である。永井荷風(1879-1959)は天気予報で用いられるこの「ぐずついた天気」という表現に不快感をおぼえ、日記の中で次のように述べている。

(昭和七年)九月十六日。隣家の人このごろ新にラヂオを引きたりと見え、早朝より体操及楽隊の響聞出(きこえだ)し、眠を妨ぐること甚だし。たまたま耳を傾けて聞くに、放送局員の天気予報をなすに、北東の風あるいは南東の風あるいは愚図ツイタ天気などといふ語を用ゆ。これ頗(すこぶる)奇怪なり。われら従来北東南東などの語を知らず、東北東南と言馴れたるなり。またグヅツイタ天気といふは如何なる意なるや。愚図々々してゐるといふ語はあれど、愚図ついてゐるといふ事はかつて聞かざる所なり。この頃の天気の如き、陰晴更に定りなく風と共に村雲空を覆ひかかれば雨はらはらと濺来(そそぎきた)りて忽(たちまち)にして歇(や)む、このやうなる天気を愚図ついた天気といふにや。いかにも下品にて耳ざわり悪しき俗語なり。気象台の報告の如きものは正確にして醇良なる語を用ひざるべからず。


「ぐずついた天気」は昭和以降に発生した新語であったのだろうか。荷風は「北東」「南東」などの語も「奇怪」であるといっている。古くは日の出・日の入りの方向である東西が基軸で、「東北」「東南」「西北」「西南」というのが普通であったのだろう。荷風が下品な俗語と斬って捨てた「ぐずついた天気」は、今日では気象庁認定の「予報用語」、その定義は「曇りや雨(雪)が2~3日以上続く天気のこと」である。

【典拠文献】
永井荷風著・磯田光一編『適録 断腸亭日乗(上)』岩波文庫 1987年7月

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