「掛乞の大街道となりにけり」

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掛乞(かけこい)の大街道(おおかいどう)となりにけり


子規、明治25年(1892)の句。「掛乞」(冬の季語)は掛売りの代金の集金人。歳末掛乞の往来の激しい風情を詠んだ句である。

これも「大街道」といふのは大きな街道といふ意味ではなく、松山にある町の名前である。松山の南北に通じてをる比較的広い町であって、それを大街道と称へてゐた。(中略)その町はふだん店が両側に連なってゐて、物売りなども沢山通るし、往来の人も沢山あるが、大晦日の暮れともなれば、掛乞の通るのが特に目立って見えるといふ句である。その時分の年の暮れの感じも出てゐる。(高浜虚子『子規句解』)


画像は大街道商店街一番町口。大正の中頃までこの通りには大法院川という名の小さな川が流れていた。→2013年8月12日記事参照。

【参考文献】
高浜虚子『子規句解』創元社 1946年10月

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粟井坂大師堂の子規句碑

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涼しさや馬も海向く淡井阪 子規


松山市小川の粟井坂大師堂にある子規句碑。昭和52年(1977)1月建立。

淡井坂というのは、松山市街から河野村の柳原へ行く途中にある小山を越える峠を言うのである。その峠の裾はすぐ瀬戸内海の波が打ち寄せているのである。その峠を越す時分にはかなり汗をかいて登ったのであるが、峠の上には茶店が一二軒ある。その茶店に休むと海の方から吹いて来る風が非常に涼しい。繋いである馬も海の方を向いてその涼風を満喫しておる、というのである。淡井は今は粟井と書いておるように記憶する。(中略)ただ今は国鉄がここを通るようになったので海岸の方を切り開いてそこに軌道を敷き、人道もその傍に通ずるようになっておる。したがって粟井坂を通る人はほとんどなく、粟井坂という坂があることを知る人も少ないであろう。(高浜虚子『子規句解』)


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粟井坂大師堂の向かい側は海、斎灘(いつきなだ)がひろがっている。

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正岡子規「七曲り」の句碑

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永き日や菜種づたひの七曲り 子規


山越6丁目・高崎公園にある子規句碑。明治25年(1892)6月17日付の碧梧桐宛ての手紙に「松山名処名物十二月等でき申し候。(中略)十二ヶ月中三月の分左に記し申し候」としてこの句がある。「七曲り」は山越から姫原を経て鴨川に至る街道。加藤嘉明が城下北方からの敵襲を想定して、屈折した道として造ったのでその名がある。「七曲り」を詠んだ子規の句にはこのほかにも、「菜の花や道者よびあふ七曲り」(明治26年)がある。

【参考文献】
『子規全集 第十八巻 書簡一』講談社1977年1月

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東野お茶屋跡の子規句碑

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閑古鳥竹のお茶屋に人もなし 子規 能成書


松山市東野4丁目・東野お茶屋跡(県指定史跡)にある正岡子規の句碑。昭和33年(1958)5月建立。安倍能成の揮毫。子規の『寒山落木』巻四・明治二十八年夏の部には、「松山東野」の前書で「閑古鳥竹のお茶屋の人もなし」とあるのだが、この中七が句碑では「お茶屋に」となっている。

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正岡子規、板橋へつくし狩りに出かける

明治23年(1890)4月7日-東京で学生生活をおくっていた子規はこの日、竹村鍛・伊藤泰の二人に誘われて、つくし狩りに出かけた。郊外の板橋へと向かう(以下、引用は『筆まかせ』第三編・明治二十三年の部「筆頭狩」)。

四月七日天気快晴一点の雲なし。其十(注-竹村鍛)・鉄山(注-伊藤泰)の二氏に促されて午前九時頃、弁当を携へてつくし狩りに向かふ。(中略)高等中学の前より路を転じて板橋街道につき、一里ばかりも歩めば人家漸く疎なり。つひに町はづれに出()でければ麦緑菜黄の景色ひとかたならず、
菜の花やはっとあかるき町はづれ


板橋に到着。町はずれの野原や板橋公園でつくしを摘む。

つひに板橋に達す。町はづれより右に折れ、水車場に沿うてうしろにめぐれば、少し広き草原あり。ここぞつくしの群生する場所なりと鉄山の言にまかせてそこここと探るに、少し時候は遅れたれども無数の小筆にょきにょきと林立するは心もちよし。(中略)大かたは取り尽くして後、川ばたに帽子をしきてその上に腰を据え、弁当と麪包(パン)とを喫し尽くす。(中略)路を尋ねてやうやうに板橋公園に出()づ。ここにてまたつくしんぼを狩りはじめ、肩かけかばんと二つの風呂敷とに満てたり。


帰途、片町のほとりに出る。芝生の広場があり、こういうところで野球をしたいと思う。当時の子規は野球に熱中していた。

それより片町のほとりに出()づ。植木屋おびただしく、ときに芝を養生する広場あり。我々ボール狂にはたちまちそれが目につきて、ここにてボールを打ちたらんにはと思へり。
春風やまりを投げたき草の原


寄宿舎に帰り、大勢集まってつくしの袴をとる。つくしは翌日の昼のおかずとなって皆の腹の中におさまった。

帰舎後、大勢打ちよりてつくしの袴をぬがしめ、翌日の午飯の菜として腹中に葬り終わんぬ。



【参考文献】
『子規全集 第十巻 初期随筆』講談社1975年5月

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