正岡子規「ていれぎ」の句

子規、明治28年(1895)の句。「ていれぎ」は水生植物オオバタネツケバナの松山地方での方言名。刺身のつまとして珍重される。高井の里でとれる「ていれぎ」と三津の鯛は古くより有名。句碑は西林寺(松山市高井町)門前。
▼ 「ていれぎの下葉浅黄(あさぎ)に秋の風」

子規、明治25年(1892)の句。句碑は杖ノ淵公園(松山市南高井町)。
▼ 杖ノ淵公園・水中で育つ「ていれぎ」

今年はカワニナの異常繁殖により「ていれぎ」の育ちがよくないという。
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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術
江戸時代の関所
川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせたものであるが、既に勤仕している武士となれば、手数はかからぬのであるが、女子供を連れると面倒であった。(中略)私ども一行は藩より通行の手形を貰って来たが女は関所で頭髪をかき分けて検査される。手形にはこの女は髪が多いとか、少ないとか、白髪があるとか、頭に疵(きず)があるとか書いてあるので、それと引合わせて通したものである。
子供となると、五歳以上の男児で上下着(かみしもぎ)した者は一人前の武士と見なされていたが、それ以下の男児は、男たる事を証明するために、関の役人の前で前をまくって陰茎を示したものである。道中には所々に藩の用達というものがあって、関所にかかる時には、まずその前の駅の藩の用達を呼んで、関所を通るについて万事その人の手でしてもらうことであった。手形も用達の手から関の役人に差出してもらう。同時に賄賂も差出してもらう。この賄賂は多きを要しないで一定していた。もしこれを出さないと何かいい草をつけて川止め以上の日数を浪費させられることがある。(『鳴雪自叙伝』三)
江戸時代の関所の実態を知らされる内容。鳴雪はさらに自分たち一家の関所通過の模様を語る。
関所へかかる前は行装を調えねばならぬ。それで箱根では、そこに近い間の宿で休んで、女は髪をあらためられる支度をして髷をほどき髪を洗っておく。父は旅中の常服としては野服といって、今も芝居で見られる鷹狩装束のようななりをしていたが、関所を通る時には野袴を穿き紋附羽織を着、家来も新しいカンバンに改め木刀をささせ、槍と草履とを持たせ、具足櫃も常は後になり先になって持たせたが、この際は父の進む前に厳しく舁がせる。常には継母と弟が乗る切棒駕籠も、この際は父の乗物として、父のあとへ附けた。そういう行列をして関を通るのであった。
父は関所の役人へ何ら会釈もせず、突袖のまま通ることが出来た。その次には私だが、私は既に十一歳だから、大小を帯び、父と同じ野袴紋附羽織に改めて通るのである。が、父のように素通りすることは出来ぬ。用達に連れられて役人の前に進むと役人が厳格に『名前は』と問う。『内藤助之進』と名乗る。『通らっしゃい』という。すると用達はもう宜しいとささやいたから、そこで通った。弟は例の前まくりをやらせられ、女連は髪をあらためられた。女のあらためはさすがに男はやらないことになっていて一人そのために婆アが雇ってあって、それがあらためた。賄賂は定まり通り納めてあるので、皆無事に通るを得、次の間の宿で休息し、再び常の行装になって、旅行を続けたのである。(同上)
「町人百姓」の場合、関所の通過はわりあい簡単で、偽手形であっても黙認されたと鳴雪はいう。
町人百姓は手形を住地の役筋から貰って通ったものである。この手合の女の検査は武家の女ほど喧しくはなかった。町人百姓が何か事故があって手形を貰わなかった時は、関所の前の宿で偽造の手形を高価で売っているのを買って、それで通ることも出来た。この事は黙許になっていた。その偽手形も買わぬ者は関所を通らずして抜道を通った。なんでも手形を持たぬ町人百姓が関所に来ると、役人は『これからどちらへ行ってどう曲ると抜道があるが、それを通る事は相成らぬぞ。』といって、暗に抜道を教えたということである。また或る人の話に、手形の無い者が通りかかると、役人が『こら』と声をかける。その時その者はクルリと向きをかえて、今歩いて来た方角へ顔を向けて蹲(しゃが)む。『手形があるか。』と問う。『ありませぬ。』と答える。『それならば元へかえせ。』と厳しく叱りつける。すると『はい』といって向直って関門を出て、サッサと通ってしまう。こういう事も黙許されていたという。(同上)
関所についてこう語った鳴雪は、江戸時代を振り返って、「旧幕時代は諸事むつかしい法度があるとともに、またその運用に極めて寛大な所もあったのである」(同上)と述べている。
【典拠文献・参考文献】
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月
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平和通の句碑(2)




①蜻蛉の御幸寺見おろす日和哉 子規
②秋の山御幸寺と申し天狗住む 子規
③草の花練兵場は荒れにけり 子規
④夏草やベースボールの人遠し 子規
⑤春の月城の北には北斗星 草田男
⑥松山の城を見おろす寒哉 子規
⑦元日の雪降る城の景色かな 碧梧桐
⑧其上に城見ゆるなり夏木立 子規
⑨初冬の甍曇るや一万戸 鳴雪
⑩古町より外側に古し梅の花 子規
③「練兵場」は今の愛媛大学、松山赤十字病院がある辺りにあった城北練兵場。明治23年(1890)夏、当時中学生の高浜清(虚子)はここでバッティングの練習中に正岡子規と出会った。⑨「一万戸」は松山の戸数。明治22年(1889)、松山に市制が施行されたときの人口は3万2916人、戸数は7519戸であった。⑩「古町」は萱町辺りから城北にかけての称。「外側(とがわ)」は城南一帯。
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